高畑勲監督映画『かぐや姫の物語』関連ツイまとめ


12/9

かぐや姫の物語』制作ドキュメンタリが面白く、劇場に足を運んだ後で再見したら更に面白く。
面白ついでに99年の「前作」山田くん、も見て高畑監督の目指した方向性が少し理解できた気がした。
posted at 13:34:48

思うに高畑勲がアニメで追求するリアリティとは、実写では画として捉えるのに限界ある人の内面を、
完全に(または完全に近く)ただ「動きだけ」で表現してしまえる事で、つまり生身の俳優以上に
高畑監督の頭の中にある「演技プラン」を完璧に再現するには、アニメ画の「人の内面を表現する動き」と
posted at 13:35:49

アニメでなければ、アニメならではの、という(実写には何の色気も未練も示さない、というような)
方向での追求の仕方は、宮崎作品以上の徹底した信念と情熱(ともしかしたら狂気)をそこはかとなく感じる。
アニメの可能性を信じ先駆し開拓する苦労に身を投じる、その役目を引き受ける覚悟は、
posted at 13:38:08

他に誰もやる人間がいないから、に尽きるのではないかと西村PDの言に思った。誰もやらないからやるだけで
誰かがやるならわざわざ自分が出張る必要はない、自分を売り込みたいとか目立とうとか
全然そういうのではなくて、たぶん一種の責任や義務の感覚に近い辛さと痛みを伴う覚悟がそれをさせる、
posted at 13:40:00

何故(損な役回りとわかっていて)やるのか、それは愛着からだ。
現状維持に背を向け、新たなる可能性を探ろうとする信念は、その対象への愛着がつくる。
posted at 13:41:26

小さな何でもない日常の動きの積み重ねが「その人」を形作る独自の個性であり(他者からすれば)
らしさの印象となる。 またアニメでしか出来ない突飛かつ大胆な動きも含め、実写に求むべくもない
「アニメならではのリアリティ」追求の最初がおそらく『となりの山田くん』で、四コマ漫画の起承転結の
posted at 13:43:08  

間の余白を埋める動きに、いかに説得性を持たせ得るかの挑戦が、試行錯誤を伴って終始繰り広げられる。
posted at 13:44:00

山田くん、で一番可笑しかったのが、夜更けて帰宅した夫が疲れ果てた面持ちで何か軽い食事をと要求すると、
慌てず騒がず妻がバナナとどら焼きのどちらにするか聞き、反射的にそんなもん食うか!とぶつくさ拒否した夫を、
それも妻は毎度の事と受け流すようにやはり淡々とした表情で台所に戻りかけ、
posted at 13:45:50

ふと足を止めるや振り返り、ちゃぶ台にバナナのみ置き(どら焼きは台所に戻しに行く)その旦那の隣
(おそらくは妻の定位置)にどっかり座ってTVを見始める。しばし二人の動きは止まったまま。と夫が
(無意識なのか諦めからかその両方か)不意にバナナを手に取り皮を剥き食べ始める、それだけの些細な
posted at 13:48:21

流れが計算され尽くした間合いと動きの絶妙で「笑い」に昇華する。結婚スピーチとケセラセラにもニヤリだし、
生徒に問われて小学校の女性教師が私の目標は「適当」です!と胸を張るオチの毒入り自虐にも吹き出したし。
山田くんも実写でやると途端に凡庸に堕ちそうな難しい作品(元々四コマで完結する
posted at 13:50:18

些細な日常が題材なので)だろうによくぞ長編でやったものだと驚いてしまう。
posted at 13:50:50

かぐや姫制作のドキュメンタリに話を戻すと、捨丸が出刃包丁に形状が似た小刀でうりを切り分け、
妹分のたけのこ(=幼いかぐや)と共に齧り付くまでを描写したカットの試行錯誤時に、『火垂るの墓』で西瓜を
切り分ける動きが豆腐を切るみたいで変だった(悔いが残った)と高畑監督がPDに語るのだが
posted at 13:52:15

なるほどと頷きつつ、だがそれなら今回でも、一旦うりを二等分する際に小刀を地面に置き、再びその片方を
二等分すべく小刀を拾う時に、着物の胸元とかで刃についただろう泥だの砂だのを軽く拭う仕草が入っていれば、
もっとリアリティが増したのではと見ている最中から既に思いはしたんだったが、
posted at 13:55:34

そこは突っ込んではいけないのだろうか、その辺の判断の加減がよくわからないでいる。
posted at 13:56:11 

12/11

かぐや姫の物語。続き。本作を「体験」した余韻引きずり、特集組まれたユリイカ掲載の高畑監督と西村Pの
インタビュー記事だの帯に映画の宣伝コピーが躍る鈴木P著の文庫本
(中身は05年で後書きは12年の『映画道楽』)だのランダムに買い求め読み漁る。
作り手へのインタビューや作品めぐる対談は→
posted at 13:53:40  

率直簡潔スピーディに話の要点にして不明点を的確に突くので、読んでいて知的興味や関心が刺激され飽きない。
評論群にも一応目を通したがこちらは疲れが先に立つ。
論の隙のない堅牢より、語りの当意即妙なリズムに惹き込まれるのは、内容に反映する我の強弱も大いに関係ありそう。
posted at 13:55:39 

あらためて。高畑勲監督『かぐや姫の物語』。かぐや姫が求婚者らの心ない侮辱に憤怒をたぎらせ、我を忘れて
故郷の山まで走りゆくエピや、再会した捨丸と共に空へと舞い上がり、眼下の自然を悠々眺めながら飛行するエピを、
夢オチや妄想空想の類と捉える声が、少なからずあるのに驚いた。→
posted at 13:59:03

私はこの作品テーマは身体性だと思う。作品全体を支えるのは身体や心の「動き」で、ただ前半の山暮らしでは
主に身体中心の、後半の都暮らしでは心中心の「動き」に変わる。変わるのは姫が外部の「動き」に結実する内部の
「気持ちや感情の移ろい」を身体から心に閉じ込めたから。
posted at 14:02:16

姫は都人となった段階で身体と心が分離してしまった、だから憤怒でも歓喜でも同じように感情の激しい高ぶりに
身体が置き去りになる、心だけが暴走する、飛翔する、それは月の住人としての元々の能力かもしれないが、
身体性を失いつつある現代人の投影のようでもある。
posted at 14:04:23 

どう生きたいか何をしたいかわからないと悩み苛立ち、もっと生を謳歌したかったと後悔と未練の思いに涙する結末に、
映画館でも共感の嗚咽と啜り泣きがあちこちから漏れ聞こえたのは、それだけ問題設定をリアルと感じた人がいたからだろう
と思う。
posted at 14:07:42

せっかく牛車を仕立て花見に行くも、ある事から気分が落ち込み同行の媼や女童に一言「帰る」と言い放つ姫には
もう満開の桜は目に入らない。都大路で捨丸に再会した時もついに牛車から降りることはなく、盗みの罪でしたたかに
暴力をふるわれる彼の姿に、たまらず車内に引込み遠ざかるに任せた姫。→
posted at 14:14:54

この二つのエピも姫の(引いては現代人の、かもしれないが)心が身体を凌駕し支配した状態(身体性欠如)の
ややこしい苦悶を示しているように思う。
posted at 14:15:54 

かぐや姫の物語。補足。本作では地球が生で月は死の象徴、であるなら月の住人も肉体は見せかけで
本来はないに等しいのかもしれず。重さも温度も感触も何もないような気がする彼らの「まとう」肉体には。
posted at 16:59:44 

かぐや姫の物語。補足2。姫が捨丸と空を飛んだ時の俯瞰の景色にしろ、聞き及んだ10年という明確な数字にしろ、
夢や空想にしては鮮明で具体的に過ぎるから、実際に(肉体は置いてきても心で)見たり聞いたりした事と考える方が
自然だと思うのですが、どうでしょう。
posted at 17:03:44