良識や名誉という「建前」、愛という「本音」/清作の妻(監督:増村保造)

おのれの社会的序列への関心が突出するあまり、
建前(うわべを飾る理念)に踊らされる、自他ともに「模範青年」を任ずる男と、
極貧&辛酸舐めつくした不幸な出生から、裕福な呉服商人に囲われることで
家族を養った過去を持つ(村人曰く「アバズレ」)女が、
出会い、惹かれ合い、すれ違い、壮絶な葛藤の果てに、過酷な道のりを覚悟の上で、
手を携え、ささやかに再出発を果たすまでの物語。

最後の田村高廣による一気呵成の説明口調の強引さに鼻白み、だがこれが増村に限らず
かつての巨匠と謳われた多くの有名監督の常套手段だったのを思い返す。
起承転結を言葉で説明せずにはいられない限界を常々感じていた。

訳知り顔で先読みし「キレイにまとめようとする」、それこそ「模範青年」的作劇の
あざとき作為には苛立つも、
かつての農村社会の因習深さ、身内であれ他人であれ、女には殴る蹴るの力による暴行か、
一方的に欲望を押しつける性的な暴行か、どちらにしろ、性的に弱き立場の人間を
鬱憤のはけ口にしてきた同性に対する、作り手の手厳しい、或いは冷めた批判的目線は
(インテリの例に漏れず)朴訥なほどに真摯。であればこその限界も同時に露呈する。
(とはいえそれは「時代の限界」でもあっただろう)

男に対し肩越しに振り向く時の若尾文子は、下からのカーブを付けて仰ぎ見る、
思わせぶりの「タメ」を入れるのが定番らしい。
何作か続けて観るとくっきりと浮上してくる。
最強の殺し文句に匹敵するワンパターン芸(見返り所作)。

男がこれまで拘ってきた名誉欲などの、対社会のみに特化した価値観が、
如何に空虚であったかを反省し、世間体にとらわれず女との愛に生きる宣言をして、
だから何だと言うのだ、との妙にひねくれた気分に襲われるのも、
元々の女(若尾)の態度が終始一貫変わらぬのに、愚かな男(田村)の曇った眼が
まともに見開いただけのことを、大層な美談に仕立てる胡散臭さを、
現代人の見地から半ば必然的に感じ取るからだが、

たとえば今週の平清盛(第9話)における朝廷の「ドロドロ」人間模様が、
いかに二束三文な茶番であるか、この映画で描かれる負の感情むき出しの
因果な「ドロドロ」と比較すれば(貴族と農民との境遇差はあれ)一目瞭然となる、
前者の悲しいほどの上っ面描写が、よりはっきり見えてくるように思う。



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