最終回の奈津のこと/カーネーション


終了直後より、一日一日とじわじわ時間差で、
「あの毎朝の至福の15分はもう二度と戻らない」味気ない現実を
思い知らされている。
始まったものは終わるしかないと承知していても
聡子じゃないが、寂しい本音を、あてなく呟きたくなる。

しかしこんな延々ループしそうな愚痴は、とりあえず横に置くことにして、
(発動せよ!意志の力!)

あらためて最終回の、病院のTVで朝ドラ(本作の初回)を視聴する
後ろ姿だけ登場の車椅子の老婆こと奈津(やはり奈津だったのは、小説版や
放映時の字幕にも明記されていたそうで、ほぼ間違いないらしい)を中心に、
つらつら考えてみようと思う。

老婆を「奈津か」と直感したのとは裏腹に、
クレジットを確認するまでもなく、あの後ろ姿がそれまで老奈津を演じてきた
江波杏子じゃないのは一目瞭然で、どう捉えていいやら、でもできれば
あれが奈津であって欲しいとの願望から、最終回の感想では「奈津らしい老婆」と
ひそかな願望込みで(思い込み全開の確信犯で)書いたんだったが、

あれは奈津だと信じるに足るソースが確保されたとなると、
今度は次の段階である考察という方向へと進み、

ではなぜ最後に奈津が登場し、本作のTV放映の初回を見ているのか、
しかも風に乗ってやってきた糸子の、魂だか霊だかと一緒に見る
シチュエーションにする意味は何だったのか、俄然気になってくる。

これまで幾度か感想で述べてきたことだが、渡辺あや脚本にはジェンダー的見地に基づく
男女の描き分けの意図が明確にあって、
たとえば戦争に対する反応1つとっても、その切り込みの鋭さに舌を巻くほど顕著に、
性差がもたらす(避けがたい必然とでもいえそうな)根本的違いを、声高でない
目立たぬさり気なさで、しかし実にこまめに、また辛辣に、描き分けていた。

どんなに望んでも「女は大工方になれない」と一蹴され、返す刀で
「女は男に尽くし黙ってつき従うのが生来の役割」だと、社会に学校に父親に悪ガキたちに、
頭を押さえつけられた幼き日より、ナニクソの負けん気と持ち前の才覚をいかんなく発揮して、
強力に立ちはだかる頑固親父との確執を乗り越え、
洋裁の世界で「女やからて舐められたない」とばかり、気を張って生きてきた糸子が

ついに戦後となり、女が、男や社会(従来二つは同じ意味だった)の監視の目に萎縮することなく、颯爽と胸を張り、自分の好きなように装う自由を手に入れた変化を、実際に目の当たりにしたことで、
身近な北村を槍玉に、古臭い男の論理(オッサンの硬直した価値観)を、
若い女たちがヒールの靴を高らかに響かせ、容赦なく踏みつぶしていく、と表現したのは、いまも鮮烈な記憶としてある。

「生まれながらに女に課せられた不平等なハンデ」を克服する糸子の方法論は、持ち前の才能を発揮して我が道を切り開く、であったが、
才能は才能でも、加齢による変化を余儀なくされる、あまりに頼りない持ち前の外見の美を、しかし最大の武器とするしかなかった(他の可能性など思いもよらなかった)奈津にとっては、
持ち前の才能を発揮して我が道を切り開く、には「賞味期限」という社会が一方的に決めた残酷な避けて通れない難関があり、
少なくとも彼女の生きた時代に於いては、糸子と違い「制限時間つきの方法論」であった点に、注意深く目を向ける必要があるだろう。

或いは、もっぱら華やかな恋愛担当は奈津、活気溢れるめまぐるしい仕事担当は糸子、と最初に大まかな役割分担を決めた上で、渡辺あやは意識的に描き分けたのかもしれない。

糸子は特別な(言葉を変えれば変わり種の)存在だが、同じスペシャルでも奈津はたぶん、多くの夢見る乙女たちの願望を体現する
(芸能人とのときめきの恋模様!とか、イケメンとの運命的出会い!とかの類)ことにより、女子の根源的な共感を呼びやすい存在なのかなと思う。
糸子の強烈なパワーと才覚への純粋な憧れと、もしかするとワンセットで。

勝の浮気が発覚した途端、口裏合わせて結託しだす男たちに、怒り炸裂した糸子の足が向かった先は、奈津の元だった。
慰めてもらいたいわけでも、助けて欲しいわけでもなく、
ただ「アンタの問題なんか知らん」と素っ気なく突っぱねる、自分にもある「ピンで立つ誇り」を彼女の中に確認したくて。これだ、とたちまちスパっと吹っ切れて満足する糸子が印象的だった。

一々口にだして表情をつくってそれらしい言葉かけて心配してもらわんでも、うちらの間はそれでいい、それがいい、と噛み締めてたに違いないあの時の糸子は。
女同士の連帯感には、厳しい抑圧の時代をともに必死に生き抜いた「同志」との思いが、何より強くあるんじゃないかと思う。

他に今強烈に思い出すのは、自分がデザインした紅白の色違いのドレスをまとい、病院のファッションショーのトリとして、仲良く手を繋いで登場し、二人して皆の歓声と拍手を浴びる、という糸子の妄想。
あれは糸子が、自分と奈津の人生を、等しく全力で肯定したかった気持ちの現われではなかったか。

歌舞伎役者(春太郎)との火遊びも、入婿に逃げられたのも、
怪しげな傷病兵に金づるとして利用されたのも、
生涯ただ一人の恋しい想い人たる泰造兄ちゃん以外に、奈津が誰にも心を動かされなかったことの裏返しだろう。
(本気で恋した相手は周防ただ一人の糸子と、そこは通じる女の純情一途、である。
余談だが二人とも想われて「よろめく」ことは皆無で、想い人をひたすら想うだけ、具体的にどうこうしたい欲望もなく、ただ「好き」という純粋培養された感情だけが、何十年も劣化することなく保たれる、びっくりするほどの純愛体質といえる)

またパンパン=キズモノになった、と考えるからこそ、経緯を察してなお、優しく接してくれる男の元にしおらしく嫁いだ、との見方もあながち間違いではない気がする。
キズモノと断罪するのは社会であり、男の論理であり、そんな偏見や決め付けに抗する術をもたなかった奈津がいる。
それでいて、奈津がおのれに負けることは、ついぞなかった。
いつも頭を高く上げて、背筋をすっと伸ばして、持ち前の誇り高さを一度も失うことはなかった。
波乱万丈の人生を、奈津は奈津として堂々、胸を張って生きたのである。

だからこそ。それだからこそ。

夢みて、愛して、駆け抜けた、糸子の物語は、
同時に奈津の物語でもあり、
またすべての女性たちの物語でもあると、
あの最終回での、TVで本作の初回を視聴している老女の場面で
作り手は伝えたかったように思うのだ。

病院にいる「あの」奈津は、物語での江波杏子演じる奈津とは、厳密には違う。
あの奈津は、物語と観ている視聴者を媒介する橋渡し役として、あそこにいるのだ。
あそこで糸子と一緒に、女の生き方の新しいロールモデルを提示する物語を、しかと見届ける役割りを担っている。

彼女は奈津であるとともに、糸子という架空の人物と視聴する女たちを、繋ぐ回路でもある。
だから誰とも顔を限定させない後ろ姿でなければならなかった。
彼女は「わたし」であり「あなた」でもあるから。

今一度、この物語が女性への応援歌であることを思い起こすと
見えてくるものがある。
姿は見えない糸子だが、アホボンらに示したような励ましは、
我々の耳ならぬ心に届く。きっと受け取りたい気持ちがあればいつでも。






.