誇張(カリカチュア)と等身大(リアリティ)の均衡/梅ちゃん先生


先週土曜の終盤で、梅子が建造を意識しつつ、ぼつりと呟いたひと言「わたしお医者さんになろうかな」を、正蔵ナレが「父が喜んでくれると思った」からだと、梅子の心情をまことしやかに代弁したのに、ずっと引っかかっていた、違和感が後を引いていた。

父を喜ばせたかった、のも確かにあるが、理由はそれだけじゃない。それだけじゃない気持ちの部分は強くあって、しかし悲しいかな、家族に理路整然と言葉での説明、説得が彼女にはできない。
だから家族各自が投げかける推測に、違うのそうじゃないのと精一杯の打ち消しを返すに留まる(ので誤解の溝が深まりもする)。

それが次の回、今週月曜にクローズアップされた。

父の教え子たる山倉の、取って付けたような失礼な求婚を断る口実なのか。
姉のため(姉の婚約者の遺志を継ごうとして)なのか
兄のため(医者になる道からドロップアウトした兄の代わりに)なのか。

家族がめいめい投げかけたどの推測にも、梅子は違うのそうじゃないのと否定の言葉を繰り返す。
否定してもなお、どうせ一時の軽い思いつきでしょうと、真剣に取り合ってもらえない、

だがそれもまた梅子自身が、これまで周囲に見せてきた実態から判断されているわけで、仕方ないっちゃ仕方ない。
その仕方ないままで通せば余計な波風も立たぬだろうに、父の勧める結婚コースにあえて背を向け、医者になりたい、という願望を持ってしまった梅子。
戦争孤児ヒロシのエピが彼女の人生を決定づけた。
俺を治してくれたのは梅ちゃんだ、の一言が、彼女のなけなしのアイデンティティの支えとなった、あの日から。

「医者になりたい」願望を父の前で口にした梅子の気持ちを、ナレーションはただ「父を喜ばせたくて」とだけ伝える。
するといやにその理由だけが注目され、その他の梅子の気持ち一切は、まるで無かったことにされてしまう、そこに違和感がつきまとう。

なぜナレがミスリードするのか、余計な(この場合完全に邪魔でしかない)代弁を差し挟んで、わざわざ視聴者を混乱させるのか。

だがわざと混乱させる作りにしていると言えなくもない(かもしれない)。
因数分解も簡単な英会話も出来ない梅子、というのは
明らかに馬鹿馬鹿しい面白み(常識ハズレなありえなさ)を狙ってカリカチュアライズされた設定だろうが、
一方で、個人の生き方をめぐる父と娘の対決を(あえて無難な結婚コースを蹴らせて)描くシビアな観点は揺るがない。
この両者、誇張と等身大、の境界線があいまいなのが、意図的か結果的かは知らないが、視聴者の混同(から反感に発展するコース)を誘引しやすいのは確かだろう。
それをも見越して、楽しいツッコミ歓迎との姿勢なら「天晴」と言うべきか。

何話かは観たことのある『てっぱん』や『おひさま』、また途中から観始めた『ゲゲゲの女房』、などを思い出しても、父と娘がガチで対決する流れは、ちょっと記憶にない。
(ゲゲゲの場合は、夫の味方をして「初めて父の言に異を唱えた」な流れで、フミエ個人の問題で源兵衛に逆らったわけではなかった)

父と娘の対決といって思い浮かぶのは、言わずもがなの『カーネーション』だが、本作は実はこの前作の方向性を継承している、
ただ見た目のパッケージが似ても似つかぬライト&ソフト路線なので、軽く扱われがちなのだろう、本作での周囲による梅ちゃんの扱いのように。
(微妙にリンクする作品とヒロインの立ち位置)

もう一つ興味惹かれるリアリティは、登場人物が胡散臭いまでの善人には描かれていないことで、
なにかしら欠点を抱えた下村家の人たち、といっても物語の中心は梅子だから、自ずと梅子が受け身の立場になる格好だが、が特に意識せずそれら(欠点=その人らしい偏り=個性でもあろう)を露呈させるのを、視聴者だけが見えている(本人と周囲はあまり気づいてないらしい)、というある種スリリングな状況は、今までありそうで意外になかったんではないか。

母の一人浮いてる濃いメイク顔に、いいとこの奥さんの「化粧は当然の嗜み」との強迫観念的見栄の強さを、
祖母の達観めいた発言に、養子(※「入婿」を後日訂正)たる建造を批評的に観察するクールな距離感を、
姉(松子)の独りよがりな決めつけ癖や、仕切り屋なところに、長女の(やや誇張入った)ベタな特徴を、
兄(竹夫)のとりわけ梅子に対する悪気のない無神経に、妹への支配欲と父譲りの野暮ったい実直、そして苦労知らずの育ちからくる隠せない大らかさを、
父の滅多にニコリともしない厳しい仏頂面に、痩せ我慢してまで保とうとする権威という名の鎧と、たまにその裏から覗く優しさを、

一度見てとってしまえば自ずと、かように完璧じゃない下村家の面々が、リアルでは別段めずらしくも、特に目立ちもしない人たちであるのに気づかされる。
てっぱんやおひさまの通例だった「これぞ善人」的な平板な人物描写とは一味違う印象がある。
それも大幅に(←こっちはカーネーションか)ではなく「微妙に変わってる」印象が。
王道のようで王道ではない、というか。一口で言い表せないヘンな微妙さ、といおうか。苦笑
それで何となし惹かれる、というのもあるかなと思う。
加えて尾崎脚本のひねくれ具合、ですか。←「へんな微妙さ」はたぶんここからw






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