ミスター・ノーバディに関する追記。

いったいなぜ私はこの映画に腹を立てているのか。

ここが良くないと腐すだけに留まらない、根本的な問題点を
きちんと把握しておくまでやらないと片手落ちだと思ったので、
もう少し突っ込んでみることにした。

まずタイトルで「誰でもない者」と主体を曖昧に扱う意図を示すことで、
自分語りに執着する内実から目を逸らさせようとする作為が気に入らない。

何を格好つけているのかとそこが引っ掛かっているだけで、よくよく考えてみたら
自意識垂れ流しを取り繕う作為がなかったなら、ここまで嫌悪を抱かなかったはずなのだ。
過去「あの」ツリー・オブ・ライフですら好意的に受け止めたんだったし。

主人公のニモ・ノーバディは9歳の時に両親が離婚することとなり、父と母のどちらと暮らすか
選ぶよう決断を迫られるのだが、それが本映画にて
「誰でもない(言外に「本映画を見ているあなたでもある」との押し付けがましい含みをもたせた)彼」に
壮大なるシミュレーション実験をさせた動機、ということらしい。
「選択する」は「選択した以外は切り捨てる」だから、本映画の構成は切り捨てた可能性への未練であり執着である。
ようするに漏れなく全てを求めてしまうほど欲が深く、極度に失敗をおそれる完璧主義者の内面を持て余している格好である。
それも本編で「誰でもない」との言い訳を強要されるニモ少年が、というより
エエカッコしいの作り手が、である。

幾通りもの人生ゲームをシミュレーションしその経緯と結果を検証していく、という
一種神経症的とも言えるほど万全を期したがる言い訳体制は、一体なんなのだろうか、
ここまで自己肯定のために周到な理由付けをしなくてはならない人生とは、いや人生における失敗とは
これほどにおそれ警戒すべきものであるのか。そんな馬鹿な、である。

人生における失敗は見方を変えれば個人の立派な(?)権利でもあるというのに、
そこにも御大層な言い訳が必要とされる。
言い訳しておかないと安心できない無駄に高いプライドが邪魔して。

無駄に高いプライドのために未練や執着を手放せないおのれの臆病を正当化しなくちゃならないなんて
なんと回りくどく面倒くさい思考なんだと呆れる私は、せめてそれ自分の中だけにとどめて
こっちにパスしないでくれないかと切にお願いしたいだけである。

世間から巨匠だの鬼才だの(とはトリアーのことだが)持て囃されるのに甘えて、卑小なエゴのどうでもいい一切合財を
やたら難解さを強調し深刻ぶったポーズで語るのは止めてね鬱陶しいからと言いたいだけである。

そんな大したもんじゃないのに凄い凄いと持ち上げてさらに甘やかす「権威に弱い」風潮もどうかと思うが。





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