はつ恋(8・最終回)ONLY LOVE


予感はあったからまだ助かった。不意打ちの失望までには至らなかった。
本作のコンセプトからしても、ヒロインに感情移入して見ている層がおおむね満足する内容なら、
企画制作の狙いとしては成功なのである。

ただ緑が、三島への思いを優先し家族を捨てた選択に悔いはない、と覚悟の笑顔で言い切った後の展開が、
(ここで出してきたか、の)まさかのガン再発、しかも手術不可能、だから一度捨てた家族の元へ舞い戻って
最期を過ごす、では前述の発言が軽々しく聞こえてしまい、それが残念ではあった。

超展開の是非以前に、説得力のあるなしが決め手となる。
ヒロインが美味しいとこ取りのズルい女であるかのような良からぬ色をつけてしまうのは、
ここまで積み重ねたディティールの無効化に繋がり、戦略的にいただけない。
三島以上にヒロイン緑の取り扱いには、さらなる細心の注意を払う必要はあったかもしれない。

潤と三島、間に緑を挟んで三角関係を形成するこの二人の男のどちらも、非の打ち所のない理想的態度で
死のタイムリミット迫る同じ「愛する女」の穏やかなひとときを見守り、静かにその最期を看取り、
(ラストシーンで)愛する者を喪う共通体験が今までにない互いの関係性構築のきっかけとなるのが、
フランス映画によくある男二人に女一人の恋愛パターンを思わせる(一人の女を取り合うライバルの男二人が、
奇妙な親しさで結びつく成り行きに)

前回の臨場感が半端なかったおそるべき泥沼から一転、達観の域に達した静謐さを前面に押し立て
小奇麗にまとめたのは、確かに最良の選択ではあった。
あのまま泥沼引きずる「リアリティ」を維持するメリットなどないに等しく、主流ターゲットの満足達成に比べれば
如何ほどのこともないのだから。

最終話でも、緑の父、生保のメガネっ子、サトエリこと三島の元妻、弁当屋の広瀬、といった脇キャラに
各ポジションを手堅く守らせていた印象。
過去のいきさつの説明役として投入されたらしい週刊誌記者のソニン含め、主役三人の次のアクションを引き出す
起爆剤的役割が、どの脇キャラにももれなく課せられているのも、本作の目を引く特徴だろうか。

潤ちゃんベッタリだったのが、3年後にあっさり別の男見つけて寿退社した生保の子も、
行方知れずだった緑のコンビニパート情報を三島に伝えて、最後に良い人ポイント稼いだサトエリも、
それぞれ本命以外の女にさっぱり気持ちが動かない潤ちゃんと三島の、「緑への愛の本気度」を引き立たせる
役割のため存在するようなもので、実際はさほどの内実を持たないキャラである。
便利に使いまわせる「物語を動かすコマ」で構わないと、本作(すなわち書き手は)は割り切っているように見える。
そしてそれを批判する気は毛頭ない(むしろドラマ作りのオーソドックスな手法と評価している)。

エンディングに流れるMISIAの主題歌に仄かに漂う根底から力強く立ち上る明るさ、また映像の方も
山の端から昇る眩しい旭日の光、あれは緑が残していった人たちの間に新しい関係性が生まれるという
比喩なのか、が不思議と爽やかな余韻を観る者の胸に響かせる。

自らが置かれた限定状況の中で、それでも相手にすべてを与える懸命さでまっすぐに愛すること、
三島にであれ、潤ちゃんにであれ、緑が注いだのはそういう愛だった。
胸にしまったはずの初恋であれ、穏やかな日常を紡ぐ家族愛であれ、彼女は悔いのない愛を貫こうとした。
最初から両天秤にかける計算高さとは無縁な、どころか上手く立ち回れずに自らを傷つけてばかりの
優しく強い女だったから、二人の男にあれほど愛された、といえるかもしれない。

そうだな、愛さずにはいられないタイプの人っているよなと、緑を全身全霊で演じ切った木村佳乃
見ていて思う。
惜しみなく持てる愛の全てを注げる人、注ごうとする人は、その深さの分だけ愛される。
相手を常に気遣うようにいたわるように、ぱっと明るく咲きこぼれる健気な笑顔は強し。
おそらくいつの時代も。
潤ちゃんが全身に電流が走るように一目惚れしたのも、患者に優しく語りかける緑の笑顔だった。
まさにイチコロとはこのことだ。







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