梅ちゃん先生SPと朝ドラらしさについて考えた


随分日にちが経ったような感覚だが、まだ先週(の土曜日)でしたっけ
梅ちゃん先生結婚できない男と女スペシャル』前後編の放映は。

本編での群像劇風の展開(※梅子とノブの結婚後を除く)とはまた違い、
主要人物数人に焦点を絞るオーソドックスな手法を選択した結果、とりわけ各自の心情変化に
より細やかな行き届いた描写がなされていた印象を持った。

やはり恋愛未満の微妙な男女の関係性における、どこか決定的に噛み合わってない会話や
思惑のズレから引き出される、(傍目には)とぼけたユーモアの味わいは、
本作ならではの特色だろうと思うし、
終始一貫淡くあっさり風味の下町人情コメディ路線の基本線を崩さなかったのは、
私の思う「朝ドラらしさ」の概念を打ち破るのに十分過ぎる快挙だった。

むろん『カーネーション』にも朝ドラに抱く固定観念を大いに覆されたんだったが、
別の角度から眺めれば、その世界的知名度なり社会的影響力の大きさから、朝ドラの一つの代名詞ともなった
おしん』が作り上げた王道をきっちり引き継いでもいると思う。
引き継いで、さらに現代に即してアレンジされた作品との見方も可能だろうと。
奉公先での食事に難儀する場面など(食事の順番が回ってきた時には、ほとんどお櫃に飯が残っていない描写)は
おしん』のそれとダブって見えもする。渡辺あや脚本のオマージュとも受け取れるシーンではあった。

私の中の「朝ドラらしさ」のイメージには、間断なく振りかかる幾多の困難にもめげずへこたれず、
負けてたまるかと我が道を突き進んでいく強く逞しいヒロイン像、というのが一つあり、
またそれとは別に(別でなくとも構わないが)
衝突にしろ和解にしろ、感動を演出する際のウェットな重たさ、というのがこれまで根強くあった。
つまりヘビー&ウェットな世界観が、従来抱いてきた朝ドラらしさの最たるイメージだったのである。

特に後者のイメージはより強固にあったので、その真逆を志向するようなライト&ドライな
(さっぱりあっさり4コマ漫画的な呆気なさで、重苦しい感情を持たせない、あっても長くは持続させない、
まるでお茶漬けみたいな軽い作り、とでもいおうか)『梅ちゃん』の世界観には虚を突かれた形で、
面白がれる要素に事欠かなかった、
薄いくせにヘンという持ち味の奇天烈さが、回を追うごとに調子づいてくる、素直なフリした不届き千万な企みが、
そのアナーキーなまでのはみ出し加減が、なんとも痛快で、
ツッコミ待ちとしか思えない穴だらけのユルさに吹き出すことも度々だった。

何気なさを装いつつ頻繁に飛び出してくる際どさがあって、ヒヤヒヤするのが、いったい楽しいのかスリルなのか、
判然としない苦笑に近い感覚にさせられる、
普通な顔をしながらの珍妙な味わいが後を引く、あんな変わり種もそうないんじゃないのか
(ああでも次のクドカン辺りはまた何か仕掛けてくれそうではある)と思えてくる。

解剖授業でご献体を前に大騒ぎしてしまう、どこかお嬢さん気分の抜けない医専の女学生らの失敗談も、
未熟ゆえのありがちな情けなさでいいと思ったし、
坂田医師の突然の事故死についても、その後に登場人物の誰もその死を話題にしない(正確には「話題にする描写がない」)のも、
制作側の311で親しい人を失った方への心情的配慮を感じたんだったが、

悪く解釈しようとすればどこまでもそれを可能にしてしまえる穴だらけのユルさ、スカスカの(言葉足らずに近い印象の)余白は、
しかし『梅ちゃん』の世界観と魅力を支える肝心要の良さでもあって、
批判されやすい(私に言わせれば誤解されやすい)弱みを必然的に持ち合わせた作品であることを、心にとめる必要はあるかと思う。

つまり作品に下した解釈(評価)の責任は作品のみならず各々の感覚感性にも拠る、ということが
本作においてはとりわけ顕著のように思われる。
返す返すも見た目とは裏腹にややこしい(癖がなさそうで実は癖だらけな)作品ではあった。


スペシャルの内容にも触れておくと、
梅子に浮気を疑われたことに腹を立て、もういいと話を途中で打ち切る信郎の
昔気質の口下手で不器用な男っぷりも、
天然ボケを未だに連発するのんびりスローなマイペースの梅子の、
本編でもちょくちょく顔を覗かせていた良くも悪くも女らしさを剥き出しにした一面も、
ぶつかり合ってまた再び互いの心の距離が接近する過程を、嫌味なくほのぼのと描写する、その塩梅の見極め方が上手いなと思った。

奇抜な展開でも何でもない、ささやかな日常の延長線上の話を、
ほんのりした温かな幸福感でまとめるのは、たとえ簡単に見えようと実際は簡単なんてものではなかろう、
梅子と信郎の微笑ましい仲良し夫婦の交わす、笑顔と笑顔の威力の計り知れなさ。「ほのぼの」は偉大なり。

本作の時代設定も、むろん復興応援云々もあろうが、下町人情コメディは(それこそ三丁目の夕日じゃないが)
現代の感覚からするとファンタジーとか化石に接する物珍しさがあり、
それで反発や憧れといった二極化を招くのかもしれないが、はっきりしているのは
昭和を表現する言葉の一つである「おおらかさ」とは、裏を返せば適当さいい加減さと同義であり、
またそれがまかり通った時代でもあった、という点だろう。

ユルユルな作品をリアルじゃないと厳しく問い詰めることに何の意味があるのか、本作が参考にしたらしき作品のひとつ、
映画の寅さんシリーズも、大概「良い加減に」ユルく軽く出来ていて、生真面目に突っ込みどころを探せば
いくらでも出てくるはずだし、またそれが作品の良さに繋がってもいる。
バレバレな嘘にわざと騙されてみるのも楽しからずやである。


本編でもちょくちょくお目にかかるたびニヤリとさせられた過去作のオマージュと思しき設定や演出が
スペシャル版にも散見されたのも面白く。
例えば雑誌記者の山川厚子には、『ゲゲゲの女房』での父親の反対を押し切り上京してきた漫画家志望で
シゲルに淡い恋心を抱きつつ、しかし布美枝との夫婦のあり方を理想として憧れてもいる、河合はるこの役回りを重ねてしまうのだし、
梅子に山川との浮気疑惑を問い詰められた信郎が咄嗟に思いついた苦しい嘘や、
互いを思いながらつまらない意地を張り合い、遅々として進展しない山倉と弥生の仲を接近させるべく、
梅子が緻密さとは無縁のその場の閃きで思いつく計画も、
その妄想がまことしやかに映像化されるさまには、ついつい『カーネーション』で糸子がマサルの浮気を疑って
デパートからの帰り道の様子を脳内で検証してみる場面が思い出されるのだった。

そういった密かな楽しみ方も梅ちゃん先生という作品は提供していた。
多用な楽しみ方の提供という側面からすると、見た目に反して案外に奥行きはあるといえるかもしれない。

また本編での扱いが中途半端に終わった感が残り、最も気になっていた松岡に関しても、
梅子への思いが完全に消えてはいない複雑な胸の内が、本編よりはっきり描かれていたのも良かったし、何より
山倉と弥生の本心に気づくという、かつてなら考えられない、人の気持ちに寄り添い、ある程度その隠された本心を察することが
出来る男に成長したのが分かって、嬉しかったのである。

松岡が以前のように酔っ払った勢いで梅子の自宅を訪問する(同じく泥酔状態の山倉を言い訳のように引き連れて)、
その心情を思うと、何も言わなくていい敏夫よ!などとガッシとばかり抱擁を交わしてやりたくなる、
不憫さにウル目がちになるのを抑えられず。

なのに女はあっさりしたもので、昔の彼より今の夫と、信郎に対するノロケを残酷にも松岡相手にしみじみ語る、梅子なのであった。この彼女の鈍感さは二心のなさ、浮気の心配ゼロの一途さでもあろうが・・・・・・泣くな敏夫!(再びガシッと)
よく耐えた敏夫、えらいぞ敏夫(再びうるうると涙目)

女松岡とあだ名される後輩の神田に、ドーナツの穴の存在意義を提示できるか問う松岡は、
自分は既に7年前に答えを出したという。
そして、答えは自分で探すものだ、とも。

ドーナツの穴とは、穴がなくてはドーナツたりえないことから、
見えないもの気づかないものがいかに大事であるかを指しているとするなら、
一面では松岡の精神的成長の度合いを示した台詞でもあろうし、
また一面では梅子という異性との出会いを、かけがえのない宝だとする暗喩にも思える。

また梅子の方も、信郎とのことで大学病院の弥生を訪ねてきた際の手土産がドーナツだったのは、
もしかすると松岡のことをちらとでも考えた女心の揺れを、雄弁に表現した小道具であったかもしれない。

ドーナツ一つでも、かようにさまざま思いを巡らせることができる。
余白をどう使うか受け取るかは観る側の自由に委ねられている。自由もまた楽しみを連れてくる。


思えば姉の松子も兄の竹夫も、結局は幼馴染の信郎と結婚した梅子同様に、
あまりに身近で特に恋愛相手として意識していなかった相手と、最終的には結ばれている。
それは叔父の陽造とて例外ではなかった(何度も名前を変えては芸能人として売り出しを試みていた、神崎珠代との結婚宣言をした)。

山倉と弥生のカップルに関しても、弥生にとって山倉は身近な存在で恋愛対象ではなかった、はずだった、なのに
いつの間にか自分でも知らぬうち、気になる人になっていた。
これは恋愛の不思議というよりも、男女の枠に収まらない人と人との関係性が大事で、そのベースは信頼でつながった友情にあるとする
尾崎将也脚本の一貫した考え方があるように思う。

ここにもドーナツの穴の定義は生きている。つまり見えないもの、気づかないものの重要性、ということだろう。
大事な人はずっと変わらず自分のすぐ側にいたのだと気づくこと、また気づけることの幸せと喜びを、
声高な主張でなしにさり気なく提示してきた作品、それが『梅ちゃん先生』ではなかったか。


最後になったが、本編の最終週と併せ、木村隆文チーフ演出の
痒いところに手が届くかのような至れり尽くせりの映像を、心から楽しんだ一人である。
カメラワークからSEの入れ方まで、どこを切っても作品への愛情愛着が詰まっていて、お見事でした。
惜しみない拍手を。そして(twitterでも呟いたが)あらためてその他のスタッフの皆さま、並びに出演者の皆さまにも
ありがとうを言いたい。お疲れさまでした。






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