大好きのチカラ/カーネーション(15)






NHK朝ドラ『カーネーション』も第三週「熱い思い」に突入し、『ゲゲゲの女房』(これは朝ドラ好きな家人の影響で途中から観始めた)以来の連続視聴が苦もなく習慣化してきた、というよりむしろ日々を彩る大切な楽しみの一つとすら、感じられるようになった今日この頃。

今日のは一段と涙腺直撃の回で、困ったことにもう一度観直しても(たぶん三度四度と回数重ねても)やはりウサギ目になってしまう、もう何度こんな事態に朝っぱらから陥らせるつもりなのか制作陣よ、観た直後に通勤通学等で他人さまに出くわすのは拷問に近いと思うんだが、皆さんどう対処しておられるやら(安心してウサギ目になれる利点から帰宅後に録画にて、とかか)。

渡辺あや脚本に関しては多くの視聴者が、TVドラマとして恐るべき完成度の域に達しているとの見方に同意を示すのではないか。現状のTVドラマ脚本の最高峰とまで言い切っても差し支えなさそうではある。
一番の特徴はわざとらしい説明台詞の極端な少なさで、ほんの一例を先週放映分から引くと、糸子が働きたいと申し出たのに激怒した父から足蹴にされてできた額の痛々しい痣を、しかし隠しもせず露わなまま女学校へ行き、驚いたクラスメイトたちから口々に「平気?」だの「大丈夫?」だの遠巻きながら声をかけられ、また下校途中に幼なじみ勘助の兄にして、だんじりの花形たる大工方の泰造とすれ違い、こちらも何気を装いつつ「どうした」と聞いてくるのだが、誰一人として具体的に「その額のアザ」がどうこう、とは指摘しない、というのがあった。
このさりげなくも鋭い省略のセンスは、とりわけTVドラマ(特撮やアニメはさらに言うに及ばず)脚本ではめったにお目にかかれない貴重なもので、現状では何でもかんでも言葉で説明しないと気が済まない(ラジオドラマでも立派に通用しそうな)「言葉の過剰さ」がもたらす陳腐のドツボにハマってない作品を探すほうが至難の業じゃないかと思えるほどだ。
渡辺脚本に感心するのは、映像の語りを信頼して任せるところは任せる、作品全体の効果を見据えた上での引き算のバランス感覚が確かなところ。もう一歩踏み込むなら、脚本は脚本だけ書いてりゃいいわけではなく、きちんと映像に仕上がった際の効果を計算に入れて、台詞なりナレなりのリアリティを追求するのがベストだと思われるが、それを渡辺脚本はサラリとやってのけているわけで、願わくば本作のクオリティに刺激される形で今後どんどん優れた脚本が世に出てくればいいなと思う。

母の千代(麻生祐未)がおのれの考えを述べるのを初めて聞いた気がする。それはめずらしいようで、でもよくよく考えれば第一週目での、幼い長女の糸子を筆頭に四姉妹の子育て真っ最中の母ではあっても、いまだに良家のお嬢さまの浮世離れした風情が拭い難くあったあの頃から、千代もまた(糸子が「いっぱしの女学生」へと成長するように)年月を重ね経験を重ね、人としての年輪を重ねてきたからこその、次女静子のおねだりに対し淡々とながらもきっぱりした、あのような態度表明になったのだろう。お姉ちゃん(=糸子)は偉いよとしみじみ語る実感は、お嬢様育ちの女が慣れぬ苦労を重ねてきた妻として母としての経験の、これまでの蓄積が言わせるのではなかろうか。(若い頃は自分に似た雰囲気の静子のほうに若干は贔屓目だった節もあったような ←神戸から送られたドレスの件とか)
そういう、目に見えない年月の経過なり重みを、安易な説明に走らない複雑なニュアンスを含んだ台詞に込める脚本と、その脚本の意図を汲んで演じ切る俳優の、相互の高いレベルでの表現の力が掛け合わされた件のシーンは、ゆえに何度観直しても新たに心動かされる。

祖母のハル(正司照枝)が、糸子の身体を案じるあまり、やたら布団や半纏など頼みもしないのに一方的に有無をいわさず着せ掛けてくる様子に吹き出した。どこの家庭でも「お祖母ちゃん」なる存在は度を越して心配性な点で共通するものなのか。懐かしい個人の思い出までが鮮やかによみがえってくる不思議。

父の善作(小林薫)曰く「仕事と思うな、勉強と思え」の、家長たる意地からくるのであろう、連日にわたる言い聞かせ(たぶん同時におのれへの言い訳でもあるのだ、我が子を働かせるのが目的ではなく、あくまで社会経験を積むため、人生修行の一貫だと)がおかしいが、糸子にそれをたった今初めて聞いたかのような新鮮な驚きをもって返され、(まだ14歳の彼女にしてみれば、ようやくその言葉の意味するところが身を持って理解出来たから、にほかならないわけだが)、何を言うか!とばかり突っ込む台詞とその声色がなんとも味があって宜しい。小林薫の芸達者には毎回毎回感心しきり。黙ってその場にいてくれるだけで嬉しくなる俳優の一人だ。

第一週、第二週、と担当してきた田中健一演出から引き継いだ初回こそ、幾許かの不安を感じなくもなかったが、一昨日より昨日と調子を上げてきた印象がついに本日、ミシンに万感の思いを込めて囁くように語りかける尾野真千子演じる糸子、の名シーンに結実した末永創演出。
艶々と黒光りするミシンの無駄のない機能美を、下方からゆっくり迫り上がり被写体に張りつくように撮るカメラワークもさりながら、一度は遠い憧れかと涙した恋してやまない対象に、正式に雇い主に許しを得てついに使わせてもらうことが叶った糸子の、慈しむように語りかける声の調子と蕩けるような至福の表情、さらに佐藤直紀の作り出す繊細な情感の機敏を感じさせる妙なる音楽とが相まった、忘れ難いシーンの一つとして、これから何度も振り返り、思い出すんだろう。だんじりとミシンを映像イメージで融合させた田中演出にも負けない、いいシーンだったと思う。

ちなみに「幾許かの不安」とは具体的には、少々雑なカット割りや弛緩気味なレイアウト、カメラワークの常に定まらない揺らぎ、パンにしろズームにしろアップダウンやら廻り込みにしろ、に対してで、殆どフィックス撮りなしでは画面から安定感が(一息つける落ち着きが)失われるのを確認してか、二話からは迅速に軌道修正が為されたようで良かったことだ。

ミシンに頬を寄せてさも幸福そうに目を閉じる糸子を見ていると、大好きなものや人が如何に活力をもたらしてくれるかが分かる。そういえば子供の頃から、好きなものをあれこれ数え上げて外の嵐をやり過ごそうというあの歌が好きだったっけ。
「その気になったら勉強できることは山ほどある」「知恵っちゅうもんは増えていくばっかしのもんやし、10年ちゅうんは減っていくばっかしのもんや」、すくすく伸びていく若木を思わせる糸子の素直さとミシンへの一途な情熱に、夜眠る時には明日の来るのが楽しみでならず、朝目覚めれば今日一日がどんな素晴らしい日になるかとワクワクする、子どもの頃のあの感覚を思い出し、忘れていたことに今さらながら気づく。大好きのチカラは侮れない。