ハイボールはじめました/深夜食堂2(2)






第十二話『唐揚げとハイボール


山下敦弘監督回。
さや(平田薫)という女性の、まぶたを閉じてほのかに微笑みを浮かべた(まるで観音さまみたく穏やかな表情の)アップショットから始まる、初っ端からの「映像の掴み」に強く惹き込まれた。

俳優の表情一つが放つ絶大な吸引力、観る者を魅了するチカラに全面的に下駄を預け、サポート役たる黒子に徹する意思が、迷いなきフィックス中心の映像からも窺い知れる。

小賢しい技術を弄しない。ただ愚直に撮っているだけとすら見えるシンプルなレイアウト&アングルが主である。なのにそれをベストの選択、ベストのショットと確信させる理由は、主役はあくまで「生きた」(完全に撮る側の思い通りになどならない、またなりようがないという意味で)目の前にいる人間(俳優)であり、撮る側がむやみやたらと下手なパフォーマンスに走るのが、いかに痛い勘違いかを熟知しているからだと思う。
裏方に徹してこそ見えてくる美というものがある。外へ向ける観察眼が研ぎ澄まされた結果として。

カウンターで身体を起こした姿勢のまま居眠りする「さや」のショットの力強さ。
唐揚げを注文した後で昼間の張り詰めていた緊張が抜けたか、おもむろに目を閉じる、その横顔の見とれるほどの美しさ。
ワンショットに息づく、映像の説得力に目を見張る。

「さや」が兄(足立智充)に幼き頃から抱いてきたコンプレックス(自分がこうしたいと願うことは決まって否定される→自分自身への否定、と感じてきた)が、ほどけていくシーン。

店のカウンターに隣り合って座る兄と妹。「どんな生き方してくれてもいい、俺はずっとさやの味方だから」、言い慣れない本音を思い切って口にする兄。黙って聞いている妹。
おもむろに注文しておいた唐揚げが卓上に置かれると、兄が妹と自分の皿に取り分け、こちらも黙々とかぶりつく。遅れて箸をつけた妹の目に表情に、じわじわ広がる微笑、そして涙。

自分がどれほど兄に愛されているか、その確かさ深さの確信が、兄が自分に取り分けてくれた(ずっと夢では横取りされてばかりだったという)作りたての温かい唐揚げの味わいをきっかけに、さやの心に奔流のごとく流れこんできたのだろう。

無言で肩をふるわせ涙を溢れさせる妹の頭に手を伸ばし、小さい子にでもするように(でも視線はカウンター横並びでの、前方ややうつむき加減のままで)こちらも無言で撫で続ける兄。——このシーンの映像は、バックに流れる挿入歌とも相まって特に素晴らしかった。

歌といえば、唐揚げの作り方のうた(勝手にタイトル作らないように)のほのぼの感も良くて、一旦ドラマが終わったシメに(昭和の昔のお茶の間ドラマみたく)カウンターから「さや」が、ほがらかに笑いながら視聴者目線で語りかけ、おやすみなさい、と明るく手を振る(←思わずぼーっと見とれる可愛さ)仕掛けが、どこか懐かしいような不思議な感覚で面白く、そうかTVってこういうユルイ感じの良さがあるよねと、あらためて思ったことだ。

やたらがちゃがちゃ騒がしくない、ぎらぎら派手でもない、地味でも大人がくつろげるドラマって、もっとあっていい。
TV視聴人口の割合にも、おそらく止まらない少子高齢化の影響は少なからずあるはずで、だったらTV番組にも、新たな戦略の練り直し(視聴層の推移を考慮した上での適切な傾向と対策)が必要なんじゃないのかな。当てにならない視聴率信仰は、もういい加減捨てるべきでは(ぼそっと)。