欲しいものは1つだけ。/QP(キューピー)第5話+カーネーション第28回






QP 第5話『ラッキーナンバー』
監督:菅原伸太郎、脚本:NAKA雅MURA

主人公たる我妻涼(斎藤工)を、シマ狙いの本命たる横溝組以外の、今のところ特に接点のない古岩組の蜂矢兼光(やべきょうすけ)と出会わせるのに、身寄りのない子供の頃の涼を引き取り育ててくれた祖父そっくりの、和菓子屋の老主人を車中から偶然見かけ、跡をつけたらその店は古岩組が仕切る桜町商店街にあり、涼が外から店内を覗っているうち若頭である蜂矢が駆けつけ、思わぬ顔合わせが実現、という筋運び。

蜂矢は折角の機会を逃さず、涼の人物を見極めようとわざと茶化して引っ掻き回すのを、涼は一々クソ真面目に受け取り、ムキになって蜂矢の「茶化し」(まさか老け専か、との執拗なからかい)を否定しようと向かってくる素振りを見せるも、時を置かず、唐突に気持ちが冷めるか萎えるかしたように、途中までの成り行きもその場にいる人間もすべて打ち捨て、興味なさげに踵を返し、立ち去る。
この辺りの、ガキっぽさと年寄りのような諦観のアンバランスさに、蜂矢は「掴みどころがない」と面食らったのだろう。アンバランスさは裏返せばギャップの魅力とも映る(ただし「誰でも」とはいかないが)。

追い掛けてきた蜂矢が、茶化した詫びを入れついでに投げて寄こした和菓子屋の饅頭を、涼は祖父へのほのかな郷愁を断ち切るように、一旦は着たきりコート(←同じものを何着も所有してるのでない限り)のポケットにしまうも、途中で水溜まりにわざと落とし、そのまま振り向きもせず歩み去るくだりには、二転三転する祖父への情に揺れ動く、涼の気持ちの葛藤が伝わってきた。
ヒコさんや大三兄ぃの例に漏れず、本作は地味エピの時に、さらに味わいを増すようにも思う。

三池監督自らスポット出演のサービス発揮。最後に間抜けなオチで〆るのは一種の照れなのか。渋い容貌が思いの外作品世界に溶け込んでて違和感ないのが凄いのか何なのか。

ゲゲゲの女房』で競演した窪田正孝(倉田役)と斎藤工(小峰役)のツーショットがミーハー目線で楽しい。倉田のような真面目一辺倒な努力型の好青年も、エイジのようなチャラ男っぽい(少なくとも見かけは)街の情報屋も柔軟に演じ分けるので、最初誰だか分からなかった(どこかで見たような、などとしばし考えてしまった)。
斎藤タクミンにしろ、ゲゲゲの時とは演じるキャラが相当違うが、今回見せた涼の一面(生真面目ゆえ、「茶化し」を額面通り受け取ってペースに乗せられてしまうところ)は、もしかすると素に近いんではなかろうかと推測。

先週の第4話の、それまでの三池回との著しい落差に(主に映像面で)今後への不安がよぎったが、心配するほどでもなさそうだと一安心、でも先週みたいに脚本に頼れない映像単体の力で引っ張らねばならないような回は、できれば三池監督でお願いしたい、が本音ではある。


朝ドラといえば。

本日の『カーネーション』(第28回/演出:田中健二、脚本:渡辺あや)は普段以上にぐっとくるウル目ポイント満載で参った。
父・善作が店にある反物全部売っぱらってまでして、庶民の高嶺の花たる高価なミシンをついに購入したとの静子からの電話に、糸子が弾む声で「明日の朝一番の電車で帰るから!お父ちゃんに言うといて、糸子はすぐ帰ってきます!って」と急き込んで伝える場面の、「すぐ」に力点を置く言い様に、糸子の父を慕ういじらしい心情が如実に現れているようで、その健気につい微笑んでしまうのだが、
電話でのやりとりを奥の部屋越しに聞いて、孫がすぐ帰ってしまうらしいと察し、寂しさに涙ぐむ祖父と祖母にしても、
小原家の父を筆頭に、母や祖母や妹たちといった家族が交わす、さりげない思いやりや温かい心遣いにしても、
周囲の者たちをも巻き込むパワーで、いつの時も持てる力の精一杯を尽くそうとする糸子を中心に、愛情の輪が幾重にも広がっているのが毎回の実感として感じられ、今更の陳腐な表現になってしまうが、誰かを思い、気遣い、愛する行為というのは、まさに生命の逞しさ力強さそのものなんだと、溜め息の出るような心地がする。

人が日々を懸命に逞しく明るく生きている、生きていくことが何より、そう何より大事で、極論すれば他には何もいらないということ。
たぶん多くの人の欲しいものはただ1つ、生きることの震えるような歓喜、そのありありと胸に迫る実感、ではなかろうか。
糸子を見ていると、いやこのたった15分間のドラマを見ていると、人の命を支える鼓動そのものが、嬉しい嬉しいと鳴り響いている錯覚にとらわれる。
生命がキラキラ輝きわたる澄んだ音が聞こえるような気がしてくる。