ムラタですか、いいえカワモトです/カーネーション






第6週(『乙女の真心』)に突入し、いっぱしの社会人として独り立ちする厳しさに直面する糸子から、いよいよ目が離せない。
糸子こと尾野真千子の真剣に怒っている面差しからも目が離せない。ずっと怒っててくれてもいいような気がする。たちまちクールビューティへの様変わりに見とれた。

プロ意識の欠如から商売上の手痛い経験をしたばかりな糸子には、ダンスホールの踊り子サエに熱を上げて給料全額をつぎ込む勘助の、後先考えないヘタレな甘さが、おのれの商売放棄同然の甘さと重なるのが我慢ならない。それで怒りも二倍に膨れ上がる。
彼女の烈火と燃える怒りは勘助に向かうと同時に、自らのしでかした失態をも断固たる身振りで(二度と同じ轍を踏んではならぬとの決意を以って)切り捨てたがってるかのようだ。

糸子が勘助を手加減なし容赦なしで「どつく」様子が、まさに善作が糸子に癇癪起こす時のパターン踏襲なのは、血は争えない、ということ以上に、相手がまるで意地悪な写し鏡のように自分と同じ弱点欠点を露呈させることへの、とっさに爆発する激しい拒絶反応でもあり、また相手をそれだけ親身に思い、心から案じている証左でもある。
善作と糸子は家族の中で一番深いところで気持ちが通じ合っているし、糸子と勘助もいざという時(子供の頃の糸子が川で溺れかけた時に、夢中で川に飛び込み助けようとした勘助、思春期の勘助が虐めにあった時に、体を張って虐めてる奴らを必至に追い払おうとした糸子)には幼なじみの絆の強さがモノを言う仲なのだ。

糸子が、偶然通りかかった泰蔵兄ちゃんに「(勘助を)一発殴ってやって」と苦々しい口調で頼むのも、善作の自分への鉄拳制裁を正しいことと自ら認めている(おのれの過ちをいたたまれないほど自覚している)からに他ならない。

糸子の勘助への非難は、ことごとく糸子自身にも刺さっているはずで、仕事の義理を果たし、親へ孝行を尽くすのが何より先なんじゃ!と責めるのは、その優先順位を間違った自分への否定として当の糸子にも返ってきているのだが、彼女のフクザツな心情など分かりようがない勘助は、でもそんなことでは他の男にサエを取られてしまう!と悲痛な叫びを上げ、地雷を踏むわけだ、糸子が善作にするように。

勘助のこの言い分を「男」の代わりに「同業者」、また「サエ」を「客」とすれば、糸子が駒子に示した、場の勢いに乗じて後先考えない大盤振る舞い(元手にも事欠く有り様での無料サービスは自殺行為だろう、資金に余裕があれば別だが)と本質は同じなのがよりハッキリする。
見境なく金銭面で大盤振る舞いすれば目論見が成功する、人の愛情を得られるほど、世の中は甘くない。何より庶民の身上では大盤振る舞いもたかが知れている。それは慎ましい懐具合を容赦なく見抜かれた勘助が、サエからいいようにあしらわれるシーンからも察しがつく。
「好きになってしまった」と胸の内を吐露する勘助が、熱い眼差しをサエに送ると、次のショットでは、踊っている相手の男の肩ごしからのぞく彼女の視線が、仕事と割りきって客の相手をしているのを雄弁に物語るように、空しく宙を彷徨う様子を如実に切り取るのだが、恋に溺れた勘助が気づくわけもなく、万一気づけたとして、どうせ根拠なき一縷の希望にすがりつくに違いない。恋は盲目とはよく言ったもの。

今週からお初登場となった安達もじり演出の、劇伴使いを抑え気味にし、そのぶんSEにこだわるバランスとメリハリのつけ方が新鮮で、この三日間のうちで印象に残るショットといえば、洋装の駒子を糸子が強引に往来に連れ出した初っ端の、ローポジションからの煽りと広角レンズの効果による、視界が広々と開けたダイナミックな表現にも増して、
糸子が家の中でモード雑誌を夢中でめくりながら、一人で昼ご飯を食べている時(その直後に駒子を伴って八重子が訪ねてくる)の、外から漏れ聞こえる物売りの声など生活音の映像への乗せ方と、薄暗い室内に窓から差し込む光線の具合が絶妙で、ちゃぶ台の表面や食器に反射する光の配分も申し分なく、短いショットながら惹き込まれた。

ただ糸子が外から帰ってきてそのままちゃぶ台のせんべい食うのと、お祖母ちゃんもそれを笑って見てるのは、大袈裟に言えばカルチャーショックに近い驚きがあった、とは子ども時分に「ただいま」と帰ったそばから、お八つに伸ばした手をぴしゃりと叩かれ、手を洗ってからだと叱られた経験者の弁。
おかげで大人になった今でも、TVドラマなどで手を洗わずいきなり食べ物に触ったり調理するのが(しかも意外に見かける率高い)気になってしまい、視聴が注意散漫になる始末。

「Cafe太鼓」なるネーミングは”だんじり”からか、そして店内に貼られた縦書きの「ダイコクビール」のダイコクは、エビス(ビール)のパロなのか、などとぼんやり考えたり。


紳士服店に就職し、男ばかりの職場に女は場違いだとばかり無視される中、一人だけやけに愛想のいい同僚がいると本気で不審がる糸子の、異性を全く意識しない色気ゼロゆえの鈍感さが、バックに流れる甘やかなワルツとの著しい落差と相まって実にユーモラスなシーンに。
とどめが、(名前なんだったけなこの人、たしか、ム、ムラ・・タ)→「おいカワモト」「はい」→(あ、カワモトや)、このさりげない流れに吹いた。
しかもパッチ屋の皆ほどには親近感がまだないのと胸の内の独り言なのとで、「コイツ扱い」で呼び捨てなのが、本日のツボ。


にしても母・千代が善作へ、糸子の商売上の失態を擁護して言う「糸子はまだほんの19やし」にはかなり違和感を覚えたんだが、他の視聴者の皆さんはどうなんだろう。
当時を想像するに、19といえば結婚して子どものニ三人くらいいるのが一般的だったのでは、と思うのだし、だとすれば「まだほんの」なんて子ども扱いは年齢的にそぐわないような。
だいたい糸子の描き方には、全体的に設定上の実年齢より相当に幼い印象があって(なんだかずっと精神年齢が小学生のままな気がして)、本日も公衆の面前で勘助相手に取っ組み合いの乱闘やらかすとか、現代に置き換えてもあの年頃の娘らしからぬ行動であるのは間違いなく、なにより清々しいまでに色気ゼロなのがどうしたものかと。今後劇的に変化するんだろうか。楽しみなような怖いような(えっ)。