ウチは本気で作るんや!本気で着てもらわな嫌や!/カーネーション







何たる至言。本気には本気で向き合うのが最上の礼儀。生温いキレイゴトの出る幕ではないのだ。
利害や身内意識による通り一遍の「誰も傷づけない(裏返せばそれだけ一山いくらのありふれた安っぽい)」褒め言葉より、駄目なものを駄目とハッキリ(だが言葉を尽くして)指摘する方が、よほど愛情があると思う。リスクを背負ってなお率直にもの申す気概は大事だし、それをこそ真のプライドというのだ、とも思う。

それでも客(だからねサエはあくまで)相手にあそこまで啖呵切るのは、まだ幼く考えが足りないゆえの浅慮もあろうが、本気をぶつけてもぶつけ甲斐がありそうな相手だから、明日の展開も悪いようには転ばない予想も立つのであって、同様のケース全てに通用すると限らないのは言うまでもなく、実話ベースのフィクションだから心配ないにしろ、サエの反応次第で、他の受注をも獲得できるか、評判が広まるかどうかが決まるというのに、よくもまあデカい賭けに出たもんだと少々危なっかしく感じたのも確か。
まあ賭けとまで冷静に読んだ上で、客相手に啖呵切ったわけでもなかろうが。
とはいえ慇懃無礼に丁寧語を駆使しつつ、取り付く島なく完璧に断る糸子の図、というのも確かに想像し難くはあるのだが。

毎日の充実し切った15分に魅せられて、つい日記よろしく一話ごとの感想を綴りたい衝動に駆られる。文章書き苦手なのに。困ったことだ。
心を動かされるほどの何かに出会うと語らずにはいられない、がそもそも人の性なのかも。

本日のはこれまでの経緯からの時間差で、糸子の商売の認識に関して、てっきり想定内と思ってたら今頃気づいたらしいと、こちらが気抜けする情報が冒頭から入っていた。そうか、糸子が宣伝効果に疎かったから、心斎橋百貨店の制服手がけた経歴を売りにしなかったのか、別に謙虚とか思慮深い狙いがあったわけじゃなかったと。ははは。でも「いいこと教えてもろた」と素直に盛り上がれるのも、彼女の美点の一つだ。
少しの水や肥料(大人にとっては今更言わずもがなの、あんなごく常識的アドバイス)だけで驚くほどすくすく伸びる。素晴らしい。熱心だし。
借りてきた高価なイブニングドレスを型紙どおりに分解するのも、19歳を少女と呼んでいいのか躊躇うが、まるで時計を分解して仕組みを確認したがる少年と動機は何も変わらない。あの真剣な目つきときたら。
ぎゅっと一点に凝縮するような集中力の半端なさ。
ハルお祖母ちゃんの非難の声もまるで耳に入ってない様子が愛おしい。

過去記事にて、主人公・糸子の主観表現を主体とする作風を高く評価した覚えがあり、本日あらためて確信を深めたのが、
昨日放映分で、神戸の母方のお祖母ちゃんや父・善作の描写を絡めて、人として避けがたい老いの問題に触れたのは、生と死を二項対立でなく、表裏一体と捉える脚本家の、生命のありのままを見つめ、生命を漏れなく(丸ごと)描こうとする眼差しありきは前提として、
ここで描かれている風景や事柄や人物の「見え方(視聴者にどう見えているか)」を支えるのが、主に糸子のフィルターを通した「糸子の主観による真実」だから、だということ。極論するなら映像から受け取る情報の多くに(糸子がその場にいるケースの大半に)彼女の主観の幾許かが混じっている、上乗せされている、ともいえる。
あの独り言のような本人ナレには、視聴者に神の司る唯一絶対の真実であるかのように錯覚させる力がある。
だがあくまでそれが彼女の見方であり感じ方であるのは、予想を裏切る元気そうな神戸のお祖母ちゃんの様子や、善作の糸子に及ぼす影響力が以前より減じたことを露骨に物語る、その登場回数や時間的比重の変化からも察せられる。

劇伴の導入の仕方、強弱のつけ方なんかも「糸子の主観に寄り添うように」細かい配慮がなされていて心憎いばかり。
母・千代が糸子制作のイブニングドレスを身につけステップを踏む場面で聴こえてくるのが、幼い糸子が初めて目にした、そして自らも飛び入りで加わった、神戸の外国人による舞踏会で流れていたワルツ(※個人的にも懐かしい楽曲、日本語歌詞つきで歌った覚えがあったりなかったり、記憶がウロ)なのも細かい仕掛け。種明かしは階下のラジオから、でも、場面に最適な音量にこまめに調整する手腕は、紛れもなくスタッフ演出の賜物。こちらも繊細な仕事に好感。

一昨日の川本君の名前の件でも流れ、本日の千代との会話のバックでも流れた曲は『ボビンのワルツ』というのか、ユーモラスな場面に好んで使われている感。正攻法への照れや一捻りしたい欲を、使う方(スタッフ側)にも感じたり。
思うにお淑やかとか優雅とは無縁な(表面的には)糸子ならではの、ギャップの面白さを狙ってる気がする。
本日のは千代本来のおっとりさ加減がもたらす「引っ張った挙句のボケ」に、まんまとやられる糸子の図というもので、どちらも気取らないチャーミングな個性の競演が、絶妙な間合いを作り出していて、可笑しい。

最も感心させられるのは(以前も言及したかもだが)照明の仕事ぶりで、明暗のつけ方には思わず見とれること多く、賞賛の言葉を連発したくなる。
本日も夜の電灯の下の灯り(と街灯か何かでほの明るい窓の外)と、清々しい朝日の差し込む室内とが、全然違った表現になっていて素晴らしいの一言。
闇とか影の配分も申し分ない。早く寝るように言い置いて部屋に戻るハルを、振り向いて見ている糸子のバックの闇と、電灯の人工的な明るさが糸子の頭部の輪郭線にちらちら躍るのとの対比の妙には魅せられた。

糸子曰く「ウチは玄人の洋裁師や!」の気概も良し。
いい加減な仕事をしてしまえば、後から評判が傷つくのは他ならぬ自分なのだから、そこは断固譲れないし、譲ってはお終いなのだ、自分が自分でなくなる、つまりは何者でもなくなってしまう。
この辺りの踊り子なんて大した仕事じゃない、だからドレスもパッと見が良ければそこそこでいい、などと自らを貶めるも同然のサエ。だからこそ、糸子の啖呵は乱暴だの失礼だのの言葉どうこうより、肝心なことを「どうせ」で誤魔化してきた自分の、痛いところを容赦なく突いてくる、いわば心に響く直球の言葉だったんじゃないか。それをどう受け取るかは彼女の器量次第だろう。
サエ姐さんもここは一つ、糸子に負けじと格好良いところを見せて欲しいもの。