過去は未来に干渉し続けるもの(完全消去が不可能である限り)/カーネーション(38)







大胆にも自ら出向いて売り込みをかけ、見事に百貨店の制服20着という大口の注文をこなしてみせた我が娘の姿に、善作なりの一大決心で、今後はバックアップに徹し、娘の洋裁にかける夢を全力で盛り立てていく所存だったのに、

親のこころ子知らず、それほどに期待をかけた糸子ときたら、初めて頼まれた仕事(駒子のワンピース)の代金を、おのれの一存で受け取らず、商売として成立させなかった。

この彼女の、父の思いを裏切ったも同然のエゴの独走(自らの存在証明に逸る若気の至り)が、善作には許せなかったし、大いに不安に駆られたのだろう。

儲け度外視の職人気取りでは困るのだ、まず第一に真っ当な商売人になって貰わないと、小原の店は引き渡せない、任せられない。

善作が糸子に要求しているのは、要するに、自身がぐらつかせたお前への俺の信頼を回復させてみろ、もう大丈夫とこの父を安心させてみろ、話はそれからだ、ということだ。

かように善作が、糸子の独立再スタートの時期を判断するのに、念には念を入れる慎重さを見せるのも、最初の客の件での失望が、それほどに響いているからに他ならない。

二度目の失敗は何としても「あってはならない」のだ。

大事な店の存続(そして小原家の行く末)に関わることだけに、善作もああ見えて(単なる酔っぱらいのくだまきのように見えて)、一家の長として真剣なのである。


幼い頃からレールを敷かれた人生を従順に歩んできた奈津の、たった一つの自由な心の象徴だった初恋、長らく自分の胸だけにしまい続けた気持ちを、当の想い人たる泰蔵の結婚話の折に、糸子になんとか阻止して欲しくて思い余って打ち明ければ、あんたのことなんか多分知らんて思うで、などと悪気のなさがいっそう残酷に響かせる一言を返され、以来、奈津はいよいよ自分の殻にこもってしまったのかもしれない。

父の葬儀の席でも参列者はおろか家族の誰にも、おそらく一粒の涙も見せなかったんだろう。
人前で泣けないのは意地と不器用もあるが、諦めもあったのではないか、自分の気持ちを分かってくれる者など一人もいないのだと。

それが、(昨日放映での)泰蔵の「吉田屋の奈っちゃんやろ?」の一言で、ほどけた。
長いこと一人きりで噛み締めてきた思いが、捌け口を求めて彷徨い出した。

糸子の一言で閉じた心が、泰蔵の一言で再び開き始める。
どちらも一言の重みたるや。
たった一言に左右される、純粋一途な恋心というものの、いじらしさ。


安岡のおばちゃんの柔らかにくぐもった相づちと、咄嗟の判断での行き届いた気遣いが、やんわりと身に沁みる。
せめて泰蔵の母であるあの人には、今更どうにもならぬとはいえ、捨てきれず胸の奥にしまったままの想いを、知っていて欲しかったんだろうな奈津。

ずっと溜め込んできた悲しみの感情を、素直に涙にして外に出せたことで気持ちが楽になり、明日に控えた入籍手続きに臨む踏ん切りがついた(少女期に決別するきっかけを得た)としたら、これまでの奈津に顕著だった、いつも何かに苛々した様子が、少しは緩和されるだろうか。
代わりに本来の良さが引き出されるといい。また願わくば、そういう旦那であればもっといい。

おばちゃんが髪結いの看板下ろすことで一時的に貸切とし、奈津を心ゆくまで泣かせてやろうと計らうのも、奈津自身が吉田屋の看板、つまり「公」に向けた強がりの仮面を外して、ひととき「私」としての自分に戻ったからこそ、敢えて同じ行為(公の看板を外す)をすることで、彼女の心情に寄り添おうとしたようにも受け取れた。

それと。奈津が泣き出した直後に、タイミング悪く泰蔵の妻たる八重子と子供の声が段々近づいてきて、それでおばちゃんが慌てて玄関に立ちふさがり、その辺を散歩してくるよう八重子に小声で促すのを、
いやたったいま散歩から返ってきたばかりだと事情を知らぬ八重子が笑顔で応じ、
だがおばちゃんは一刻も早くと気が急くように戸を閉め、しかし戻る途中で看板降ろさなきゃと思いつき、引き返して再び戸を開けると、
さっきのまま一ミリも動いた風もなく、ぽかんとした頼りなげな笑みを顔面に張り付かせた八重子が、子供の手を引いて立ってる(それでもおばちゃんは余裕なく看板下ろすやいなや、無情に戸を閉める)、の一連のユーモラスな流れが、
わざとらしくなく自然にシリアスなシーンに挿入されているところが、本作の面白さだと思う。