山下敦弘監督回は見逃せない/深夜食堂2(5)+カーネーション






小林薫は『カーネーション』のみにあらず。
ということで『深夜食堂2』の第5話「缶詰」を録画にて視聴。

映像に、音楽における聴覚に匹敵する視覚の快楽が満ち満ちていて、冒頭からぐぐっと惹き込まれるように見入ってしまう、山下敦弘監督回。
(ちなみに脚本は別の人、同姓の男女二人組とくれば夫婦かと予想)

自主映画制作に張り切る男子大学生のゲンキとユウキが別個に、でも間を置かず食堂を訪れて、最近知り合ったばかりの菊乃に、主演女優のオファーをする、すると彼女は答えを保留する。
というのを、まるで舞台のお芝居やシチュエーションコメディのように、やり取りの一部始終を繰り返すのは、その恐れを知らぬネーミングセンス同様、狙ったあざとさが丸見えゆえに、一気に嘘っぽく作りモノめくのは避け難い。

それでも当該シーンの長廻しは文句なく良かった。いや長廻しだけでなく、ショットの構図も配置も割る配分もテンポも繋ぎも、美味な料理を味わうかのように、TVでは中々お目にかかれない密度の濃い映像を楽しんだ。

CM明け、上述の二人の話を腕組みして聞いているマスターが、おもむろに厨房の方へ退くと(画面手前に大学生二人の後頭部、カウンターを挟んで彼らの正面に立っているマスターが、いったん話が切れたタイミングで厨房のある右の方へフレームアウトすると)、パッと視界が開けたコの字カウンターの反対側、つまりは対面に、一人の初老男の姿が現れる、という画の作り方が良かった。
無駄にカットを増やさず、話す相手を交代させるテクの洗練に加え、次にくるホラーな雰囲気の先取り予告的な働きも含んでいるのだろう。(人間が手品のように現れる、かのように見える見せ方は、当然にしてそこまで意識してのことだと思う)

その初老男が語る、約40年前に起きた不倫による殺人事件のくだりでの、男の顔のアップショットに絞った撮り方は、計算されたライティングの効果もあって、一種異様なムードを孕んだ迫力を生んでいる。

そのショットの直後に、対比のように今度は初老男の話を聞いて、謎めいた菊乃との符丁に背筋が寒くなったか、オドオドと戸惑いを口にし合う大学生二人の心細さを、巧みな構図と人物配置のワンショットで表現し切るのは、『松ヶ根乱射事件』(四年前なのかまだ、もっと以前かと思ってた)撮った経験が生きているのかも。

いまいちピンとこなかったのが、初老男が食堂を出た時にはその彼の言う40年前の大学生の姿に戻っていて、さらに一瞬後には(まさに)煙のように消えてしまうシーン。
意図は分からんでもないけど、そこまでオチに拘らずとも(事細かに説明せずとも)いいような気もする。台本のト書きにあったんだろうか、あったんだろうなおそらくは。
無理くりにでもオチつけて説明責任を果たすのが、TVドラマの正しいあり方だとの呪縛から、作る側も視聴者もそろそろ解放されていい頃かと。

ラストシークエンスの、震災ボランティアで自分探し、のオチも、取ってつけたような出来すぎ感が邪魔して、嘘っぽく聴こえるのが惜しい。もっと肩の力抜いていいんじゃないかな、本作のカラーとしても。
深夜食堂で出される奇を衒わない定番&(気抜けするほどの)簡単メニューと同じで、必ずしもキレイな美談にまとめる必要はないんじゃないか。言葉に出来ない「人」のささやかな思いや感情を、映像で表現してくれたら御の字、というスタンス。


おまけ。本日の『カーネーション』でも、縫い子のおばちゃん連中が、生地を裁断して欲しさに糸子のもとに押しかけるシーンは、長廻しで撮っていた。
あと冒頭のローアングルも、朝ドラ的にはなかなか大胆な選択だったんじゃないかと思った。

ただ一つ苦言をいうなら、
寄ったり引いたり回り込んだりするカメラワークの、いつまでもぴしっと決まらないでゆるゆる移動し続ける「落ち着きのなさ」が、気になりだすと辛いものがある。苦手なので、あまり多用して欲しくないのが本音。
あのカメラの「ゆるゆる移動」が映画との決定的違いかもしれない。ああいうざっくりした(ぶっちゃけ雑な)移動は、TVの専売特許なのでは。
先日たまたまCSで冒頭部分を観て、カメラワークの秀逸さに唸ったのがリトヴァクの『追想』。カメラがまるで空気のように、自然かつスピーディな移動で対象を滑らかに追いかけるさまは、視覚の快楽そのもの。
だから『カーネーション』のカメラワークを、映画のようだとの決まり文句で褒める文章を見るにつけ、微妙にむず痒く、どんな映画を想定して言ってるのか、聞いてみたい気もする。私個人は(優劣は関係なく)映画とは全く別物で、そもそも比較できないと思っているので。