糸子、ついに独立宣言を突きつける。/カーネーション(41)






Xmasケーキのロウソクが五本だったのは、偶然にしろ意味深な符丁だ。
母、祖母、三人の妹たちを金銭面で支える役割を、父の代わりに一身に担っている糸子の置かれた現状が、端的に表れている、と思った。

ケーキを前にはしゃぐ家族の様子を、少し離れた障子の端にもたれ、どことなく疲労の滲む微笑をたたえて穏やかに見つめる糸子には、父の役割を代わりに果たさんとする者が知る、父と同じ、孤独の影があった。
あれが、我が身を削って家族を養う者の眼差しでなくて、何だろう。

その温かい家庭の団欒に、しかし肝心の当主の姿だけがない。
(ロウソクの数が五つきりなのは、善作も糸子同様、養う側の人間にカウントされてることの象徴かもしれない)

帰宅時は大抵へべれけだから、娘たちは嫌がって、もはや玄関先での出迎えもしたがらない。
その寂しさを軽口叩いて指摘してみせ、些細なこととして振舞おうとする善作の、精一杯の強がりが痛々しい。
本当はバリバリ空気読んでるくせに、ワザとすっとぼけて見ないふりをする。
目を逸らして空しい時間稼ぎをする。

糸子は今や小原家の家計を実質上支える稼ぎ頭であり、つまりは父本来の役割に並ぶ立ち位置にいるのであり、だからこそ、糸子が父にガチンコでぶつかって行くのは必然で、避けがたい通過儀礼となる。

ここにはもう性別を超えて普遍な、親子の世代交代の激烈なるドラマがあるだけだ。

親は自分の管理下を外れようとする子を、全力で抑圧にかかる。
子はなんとかそれを跳ね除け、渾身の力を身のうちに溜めて、一気に跳躍を決めようとする。
痛みの伴わない円満な自立など、実体なき言葉遊びに過ぎない。親子とはいえ簡単に互いを分かり合えるほど、人間は単純ではないのだ。

守られる存在から、守る存在へ。
久々に再会した神戸の祖父と祖母の、以前とは見違えるほどの老いの進行に、あらためて重なって見えたであろう父・善作の存在。
守ってくれる場所に一旦は逃げこみ大勢を立て直そうとの目論見が、糸子の心のどこかにはあったことだろう。
張り詰めた緊張を心地よく解きほぐしてくれる、無条件で甘えさせてくれる逃げ場は、しかしもう無いのだと、客間のソファに寝て朝を迎える糸子の置かれた、昔とは様変わりしたもてなし体制が雄弁に語っている。
なにも叔父叔母がことさら意地悪なのではなく、祖父祖母のタガの外れたと表現したくなるほどの溺愛レベルに及ばないだけのこと。
それが紛れもない「(子供時代の甘やかな)夢から醒めた後の」現実なら、事実を受け入れて自分が「変わる=大人になる」しかない。

もう許しなんかいらん。ウチが決めたらそんでええ。
静かな決意みなぎるきっぱりした口調で、ついに父に真正面から独立宣言を突きつけた糸子。
荒ぶり高じて手を挙げる父は、怒り任せにちゃぶ台に置かれたケーキをひっくり返し、捨て台詞で退場するしかない。
その背負った孤独が、悲しく切なくやりきれなく、涙を禁じ得なかった。
妹たちの涙、母の涙、祖母のあえて明るく振る舞う空元気、みんな抱きしめたくなった。

神戸の祖父祖母に糸子が急激な老いを実感するシークエンスでの、窓辺に置かれた籐椅子に呆けたようにただ黙って座っている祖父に、画面手前から近づいていき、ひざ掛けをかけ直す糸子のシーンに流れる劇伴と、カメラワークが素晴らしかった。
それ以前にシークエンス全体の冒頭部分、糸子がココアを運んで部屋に入る直前の色の配分(庭の緑と闇の黒)も申し分なし。
(昨日カメラのゆるゆる移動が苦手と書いたら、偶然にも本日は劇的なまでにカメラの動きが自然かつスムースに様変わりしていて嬉しい驚き、この調子でお願いしたい出来れば)