ブサイクなもんとキレイなもん/カーネーション(50)







糸子の結婚、出産、店のリニューアル(看板も小原洋裁店からオハラ洋装店へ)&従業員を雇うなど経営拡大、と目まぐるしく変化する物事の経過に、昨日ふと最初の頃が思い出されて録り溜めたBDを引っ張り出し、第一週『あこがれ』を振り返ってみたんだが、
いわずもがなな子役の糸子だけでなく、ハルも善作も千代も神戸の祖父母も、皆が若いのだ今より随分。
それでもうグッときてしまい、家族のアルバムでもめくるような懐かしさを噛み締めながらの再見となった。

昨日今日と、人々を絶望の淵へ強制的に引きずり込む戦争の暗い影を、不気味な通奏低音として響かせつつ、新たな生命の誕生を主軸に描くことで、声高でなく、しかしこれ以上ない明確さで反戦を謳った、明るいユーモアの中にも骨太な意思を感じさせる内容だった。

昨日放映分(49)からは与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」の真摯な願いが、ひしひしと伝わってくるように感じられた。
勘助の出征に際しての安岡のおばちゃんこと母・玉枝の、我が身と息子を励ますように無理に笑顔を作ってみせる健気さや、親友の勘助を万歳三唱で見送るはずの平吉が、「辛くて見ていられない」と顔を曇らせ、その場を足早に立ち去る様子に、
出征は名誉だと教えられるままあっけらかんと復唱していた糸子も、さすがに不穏な空気を感じたらしく、平吉の背に「どうして」と疑問符を投げながらも、次第に心許ない不安げな表情に変わる。

本日(50)の第二子・直子の誕生は、絶望の闇をもたらす戦争とは真逆のベクトルたる希望の光として強調される。
松阪家が経営する紡績工場にて軍服作りを請け負うことに、激しい拒絶を示し嘆いてみせた神戸の祖母・貞子が、嬉し涙に暮れながら嬰児の直子を抱くのにも、
ラジオから軍歌が流れだすと直ちにスイッチを切ってしまった糸子が、代わりに蓄音機に近づき、クラシック音楽(以前木之元電キ店で流れたベトでなくモーツァルトなのがミソ)のレコードに針を落とすのにも、
戦争という破壊し殺戮し争奪しつくす暴力の「醜さ」と、嬰児や音楽という生命や芸術文化のもたらす創造の「美」が、きっちり対比されている。

直接的に肉体を傷つける以上に、個の尊厳を徹底的に踏みにじり、自由な発言や思考を禁じて一切の批判を封じようとするような、精神面にダメージを及ぼす暴力のたぐいが、思うに最も醜悪ではなかろうか。

勘助の手紙が、墨で塗り消されて読めない箇所があった一通目から、「気色悪いくらいにあたりさわりのない文面」へと変化したのを、「ウチが知ってる勘助やないみたい」と暗に批判した糸子。
強制的に行使される国家権力という名の暴力によって、個人が人格や個性を剥奪されたカオナシに変貌させられるさまを、気色悪いと感じたままに率直に表現する(せめて心の中で)のは、糸子ならでは、さらには産み育む性である女性ならでは、なのかもしれない。

あんなカメムシみたいなブサイクなもん!と吐き捨てて、軍服を毛嫌いした貞子にしろ、軍服が象徴する精神肉体両面に及ぼす暴力を、とどのつまりは醜いと批判しているようなものだし、また勘助の葉書の文面に塗りたくられた墨や、ラジオからけたたましく流れる軍歌に、糸子が示した反応も同じく明らかにあれも批判的態度なのであって、その双方の批判の根本にあるのは、ファシズムによる暴力がまかり通ることへの、直感的に働く嫌悪に他ならない。
昨日の夕餉を囲む家族の中で一人だけ、検閲の墨入れを由々しきことと言わんばかりに、眉間にしわ寄せて腕組みしている糸子には、思わず噴き出しつつも、なんと可愛らしく凛々しく頼もしい人だろうと微笑ましく見ていた。(ぶっちぎりで昨日のツボ!だった)


お産に立ち会い中の千代が、二階から降りてくるなり「糸子が・・・」と告げるなり涙ぐみ、どんな不測の事態が起こったかと善作を仰天させたスルメのオチといい、
善作&勝の小原家男性陣による(失礼だと陰で糸子がムッとした)猿の子でも構わない(と言ったら本当に猿の子みたいだ)発言といい、
相変わらず上質なユーモアのスパイスが効いていて、静かに反戦の意思を滲ませるという硬派な内容にもかかわらず、全体の雰囲気を決して暗く重いシリアス一辺倒に持っていかない、脚本のバランス感覚がとてもいい。
ユーモアや対比表現を用いてシリアスな本音をくるみ、あとは察してくれるのを期待して、そっとこちらへ差し出してくるような細やかな配慮に、関西らしさ、女性らしさを感じたり(単なる思い込みかもしれないが)。

八重子さんもパーマネントを導入して、立派に安岡の店を継いでくれそうで頼もしい限り。
「逞しい」は女のためにある形容詞なんじゃないかという気も。うーむ(←腕組み糸子状態)