虎の威を借る狐、とも言う/カーネーション(55)







あれから例の論争モドキ(中身無いからモドキで十分)がしつこく続いてたらしいのを遅ればせで知ってくだらねーwと呆れつつ、これだけはもう一度確認しとくが、戦争に対するネガティブな感情は、すべて間違いようもなく「反戦」だからね。
反戦とは違う」が、いかにつまらない屁理屈であり、言葉上のセコイ揚げ足取りか、冷静になれば分かると思うが(分からないのはよほど、以下自粛)。
本来「反戦」は、字義通りの意味で、それ以上も以下もないんだから。なのに勝手に拡大解釈し、勝手な文句つける横暴を、きちんと横暴だと指摘するどころか、言われるまま鵜呑みにし、言葉の上辺だけを取り繕うのに汲々とするなど、あまりにも本質から逸れた無意味な擁護というほかない。

思想などと大層なもののように吹聴し、いわゆるプラカードもってデモ行進やってるような、ごく限定的な貧しいイメージをつけたがってるセコイ決めつけ野郎も大概だけれど、
そんなちゃちなハッタリに簡単にほいほい乗せられ「反戦などどこにも描かれてない」と大嘘吐くのも相当に浅はかだ。どーんと構えてればいいんじゃないか、そこは糸子の「図太さ」でも見習って。


国防婦人会のオバハンの滑稽なほどの威張りようを、「鬼の首を取ったよう」と糸子に評させる渡辺脚本に吹いた。
安岡のおばちゃんが面と向かってぶちまけた糸子への人格非難を、個人的な鬱憤晴らしと一緒くたにし、ヒロインの性格を(何故か嬉しそうに)あれやこれやと批判する視聴者がいるのを見越した仕掛けに思えて。だが渡辺脚本なら、そのくらい素知らぬ顔してやりそうではある。知らぬは一部の視聴者だけ、なんて。おおコワ。

安岡のおばちゃんの気持ち、糸子の気持ち、上手く噛み合わなくとも、どちらも相手を陥れようとか困らせようとか、そういうシケた根性はこれっぽっちもないんだから、勘違いした外野が両者をどっちがどうだの(この展開に乗じて)調子こいてジャッジするのもまた、浅はかであり傲慢なことだろう。
以前も書いたが、自分が嫌いな(または異なる意見の)者を悪、好きな(または同意見の)者を善、と見なすような単純おこちゃま脳では、分からないことが多すぎるんだな。そんなちっぽけな個人のご都合主義を満足させてくれるお花畑な世界が、本作のどこにあるのやら。何を見てるやら。誰かが嫌な思いをするのを見て「溜飲下げた」とか、恥ずかしいことをいい大人が口にすること自体、ある意味感心する。まさしく鬼の首を〜そのもの。なんとまあ品のないことで。