大事なもんをほんまに大事にしよう/カーネーション(57)






色気づいた糸子、というのを、初めて見たような気がする、
なにせ今までが今までなんで、形容矛盾とすら思えたり。あ、つい本音が。

オノマチの演技がまるで違うのに驚く。
勝と連れ立って帰宅し、開口一番「ただいまァ(←これがまた微妙に甘い声だったり)」と、玄関の引き戸開けた時の顔なんて凄いよ、ムンムン女っ気発散させて、愛されている自覚ある者特有の、安定して満ち足りた笑顔たたえて、誰だよこれ別人かってくらい表情が柔らかくなってた。かくて奇跡は起れり。

実は最近の糸子に急速なオバサン化を感じないこともなくて、それは、色気という潤いに決定的に欠ける人間の必然的に辿る道ゆえに、このままではマズイんじゃないのかと密かに危ぶんでいたんだったが、

しかし糸子の、自分へのお洒落を置き去りにして、他者を美しく盛りたてることにのみ関心を向ける傾向は、そういえば一体いつから始まったやら、
もしや子供の頃の、神戸祖母から糸子宛てに贈られたドレスに一時は大喜びしたものの、結局糸子にはサイズが小さすぎて、泣く泣く妹の静子に譲らざるを得なかった、あの辺りからだろうか。

今日の化粧をめぐるハルのお小言からも、ある程度は身内の親密さが言わせる誇張にしろ、糸子の容姿に弱点カバーの必要性を、本人すら認めているのが窺えて(走るウサギと眠る亀では話にならん、そらそやな、みたいな会話で)、自分をお洒落する勘定に入れない徹底した傍観者傾向は、自身の根強い容姿コンプレックスとも関係するのかとも思ったり。
ただたとえそうだとして、オノマチの容姿ではどこにも説得力のない台詞ではあったよ。亀、はないなあ。

「(口紅ひいても)誰もうちの顔なんか見てへんわ」とむくれる糸子に、びくとも揺らがぬ落ち着いた口調で「旦那さんが見てる」と、ごく真っ当な指摘をする祖母ハルのような常識人は、小原家の顔ぶれを思い浮かべても、とりわけ頼もしい存在だ。
どこか子どものような無邪気さを残す善作や千代では、ハルほどの素直に腑に落ちる説得力はなさそうだし。

千代が感嘆の溜め息とともに評した「ええ婿さん」には、果報者な我が娘への羨ましさも多少はあったかもしれない。
善作には望むべくもない、マサルの穏やかな気質ならではの美点。

久々に訪れる心斎橋百貨店に糸子が勝を誘った動機の一つに、誘われた歌舞伎見物での、ついぞ知らなかった夫の別の顔(舞台上の役者に絶妙のタイミングで声掛けするのは通い慣れている証拠だろう)を見て仰天し(まん丸に目をひん剥いたびっくり顔の可笑しさよ)、自分の自慢できる過去の業績を、初めて勝に見て貰いたいという欲が生じたんだろうが、それも叶わず、ではもう用がないから帰ろうと「潤いのない女」たる糸子は、こんな時まで実務的に処理しようとするのに、勝がまあまあと引き止め(たんだろう)、糸子にショールを見立て始めるのも、たとえ浮気の罪滅ぼしのためが第一だろうと、そこは妻を喜ばせたい気持ちがあったと思いたい。
カーネーションの刺繍入りの赤いショールを肩に当てた糸子を、真正面から見つめて「よう似おてるわ」と穏やかに微笑む勝のあの表情が、妻への愛を装った作り物の嘘であるはずがないと思う。
しょせん浮気は本気じゃないから浮気なんだしなァ。仕事暇だったから気の迷いでついフラフラと、のパターンなら同情の余地ありと思わなくもない。まあ糸子だって長らく色気ゼロで通してきて、挙句に「都合のいい旦那」だの腹の中では軽く見ていたわけで、やみくもに勝ばかりを責められない気もするんだった。(許せ糸子)

しかし夫からの愛情の片鱗を感じ取ったお陰で、ようやく自分のためのお洒落に目覚め始めた矢先に、勝に召集令状が届くとは皮肉な。
もし万が一、これで勝が帰還しなかったら(ノベライズ等の情報未見なので)、お洒落して見せる特別な人を失うことで、糸子が再び自分へのお洒落を封印し、これまで通りに黒子に徹するんではないかとの、何となくの予感がある。
彼女という人は、そういう純情一途な面を持っていそうな気がする。
(伝え聞くリアル糸子たる小篠氏のことはともかく、本作の糸子もまた生涯を洋装でなく、和装一辺倒で通すとすれば、そう位置づける意図があっても不思議ではない。「洋服を着ない」をある種の意志なり決意として捉える描き方が。)

あともう一歩突っ込んだ見方をすれば、渡辺脚本がこのエピで描きたかったのは、女の可愛らしさ&健気さを十全に引き出し、開花させるのは男次第ということかと、ちらりと思った。
勝に異性の魅力をまったく感じてなかった糸子ですら、千代に冷やかされ、はにかむまでに変わるのだから。

それでも、歌舞伎座に向かう行きの電車の中で、肩にもたれて居眠りしてた相手が、夫の勝でなく見知らぬ中年男性だったのに、慌てるでも頬を染めるでもなく、ただいい気持ちで寝ていたのを起こされて呆然としていた、子どものように無防備でイノセントな部分を、失って欲しくない、とも思う。
だってこの可笑しさ面白さ可愛らしさは時代を超えて貴重な、人としての魅力だから。
つい上述場面に、糸子の小学校時代の男の先生が、彼女に口癖のように言っていた(フッと緊張感が抜ける関西弁アクセントが決め手の)「何をやっているんですか小原さん!」のお小言を思い出し、あらためて吹き出してしまった。