「服」が雄弁に語ること/カーネーション(58)






勝が出征時にあえて(だろう)着用したスーツ。前夜から見送りに訪れた善作の国民服。
どういう服を選択するかに、直裁的な言葉では表現し難い万感の思いが込められている。
いみじくもドレス注文をめぐりサエと対立した折に、糸子が断言してみせた「着る服で人は変わるんや!」の信念と併せ、本作の核となるテーマの一端を見る思いがした。
各々の人生に寄り添うように、服はその身を包む。
そうして言葉に代わり、着る者の内面を雄弁に語るのだ。

国民服を着用することで、大事な入婿を襟を正して見送らんとする義父の痛ましい心情を汲み取った勝が、初めて周囲も憚らず男泣きし、「すんません」を繰り返して深々と頭を下げたのも、わかる気がする。
長女の婿として、小原家を善作から引き継いで盛り立てていく役目を、自ら望んで(廃嫡までする決意で)引き受けたものを、不可抗力とはいえ最後まで意思を貫けなかった無念、歯痒さは如何ばかりか。

なにより自分という人間を高く買ってくれ、後を任せてくれた義父に、申しわけが立たないと身の縮む思いだったのではないか。
当時の「婚姻」は家と家との結びつきの意味合いが圧倒的に強かったし、さらに妻たる糸子も周囲の勧めで結婚に踏み切ったに過ぎず、長らく淡白な関係だった、となると義父の信頼と期待を裏切る不甲斐なさの方が、気持ちの上で突出するのはむしろ自然なことだろう。

ずっと紳士服づくりを専門にしてきた男が、出征の日にパリッとしたスーツを身にまとい、「行ってきます」と笑顔で手を振る姿には、凛とした決意が漂っていた。
「いつも上機嫌」との画一的な評価に甘んじ続けたマサルの、実際にはそれだけでない人間としての奥行きが窺える。

以前も指摘したように、本作が糸子の主観中心で進行する以上、人物描写に濃淡のアンバランスが出るのは当然というべきで、そのことが了解されていないと、糸子の起伏多き感情の波に容易く巻き込まれ、嫌になるほど振り回されることも少なくないのではと思われる。

フィクションの登場人物に感情移入しまくって安心できるのは、それが定型の枠から出ていない場合のみ。
作品がリアリティを伴うほど、「人間は不可解」という避けがたい本質が浮かび上がる。
一時の熱狂に浮かれ、無用心にヒロインに感情移入しまくった反動で、彼女が思う通りに動かないのを「裏切られた」と騒ぐくらいなら、ヒロインの主観に遊びつつ、外野としての客観を忘れない、二重視点の保持に務めるのが精神衛生上宜しかろう。

浮気の件は、過去のこととて今更ジタバタしても動揺し損といおうか、いつも上機嫌な都合のいい旦那、で長らく十分満足していた来し方を思えば、「なんだそうか」でさらっと流すわけには・・・いかないのかなやはり。
色気や潤いを外に求めたくなったマサルの気持ちも分からんではないので。つなぎ止める努力もなく自らの至らなさも棚上げにして、一方的に相手を非難するのにはどうも躊躇がある。そうしたい感情は理解すれど。

出征前夜に丸刈り頭となった父・マサルに対する、優子と直子の性格の違いがよく出ていて興味深く見ていた。
赤子の頃の猛獣と称されるほど元気が有り余ってた直子が、成長につれ、言葉より動作や行為に気持ちが先走るのが、姉の優子とは正反対な印象で面白い。

今日の千代の台詞には、善作への洞察の深さがにじみ出ていて、連れ添った年月なりの貫禄というものが感じられ、最初は見知らぬ他人同士だったものが、さりげなく相手の本音を突くまでになるのか、でもそれは愛情あってこそに相違ない、などと思ったりした。
善作の話題をしたりされたりする時の千代の顔は、いつもゆったりと満ち足りていて、見ているこちらをも、ほのぼのした心地にさせる。

勝が善作にすんませんと詫びたシーン、勝の頭髪に糸子がバリカンを入れるシーン、みな台詞を最小限に抑えて映像で見せるからこそ、しっとりと後を引く余韻が生まれる。映像に全面的に委ねた結果、画面上で交差する勝と善作、勝と糸子、という双方の心情が、台詞以上に胸に迫ってくるのだと思う。