闇が深くなればなるほど輝きをいや増す光のように/カーネーション(61)






間近で善作の火達磨になる姿を目の当たりにした精神的ショックから、祖母ハルが茫然自失の体となり、ついには寝込んでしまう、という展開は
過去に経験した、我が祖母の状態を思い起こさせるもので、やたら胸が痛かった。

つきっきりで看病する者が誰もいない、仕事も休めない(家族が勤め人揃い)、で気が気でなかったのを思い出す。
生来が気丈な人でも、高齢になると激しい精神的ショック(我が家の場合は二人の孫が相次いで実家を出たのと、住み慣れた土地からの引越しが原因だったのだろう、と振り返って思う)を契機に、一気に魂を抜かれたようにガクンと落ち込んだりするから、ハル大丈夫かと、息詰まる思いで画面を見つめていたら、糸子の産まれたての赤ん坊に、少し元気を取り戻したみたいで良かった、とりあえず安心した。
どうかこのまま、いつもの気丈なお祖母ちゃんに戻ってくれ、と切に願う。

しかし、そうか、ぱっくり割れた火鉢が沓脱石の下に転がって、傍には窓硝子の壊れた引き戸が落ちている、ということは、善作が火に包まれながらも、咄嗟に家を火事にせぬため、火鉢を外へほうり投げたんだな。異変に気づいた糸子が階段を駆け下りる途中で、硝子の割れるような音がしたから。(相変わらずSEの配慮に抜かりなし)

診療室の前で、善作の治療が終わるのを不安気に待っている糸子に、リアカーで運んできた木岡、木之元、の三人。
二人の男は、消火の際にびしょ濡れとなった浴衣一枚で震える糸子に、羽織った丹前を脱いで肩に掛けてやる気遣いには思い至らない。
そこへ木岡の奥さんが、濡れたままではお腹の子に障ると、糸子に着替えを届けてやる。
女と男の着眼点の違い、其々の担当分野の違いが、如実に出ているようで興味深かった。

また、母の千代を筆頭に、糸子を除いた小原家の女たちが酷いショックで動けないでいる分をカバーするように、昌ちゃんが他の縫い子たちを指示して、テキパキとボヤ騒ぎの後始末をする姿も頼もしかった。

陣痛に苦しむ最中の糸子が心中、善作、勝、ハル、へ順に呼びかけ、心細いとつぶやくのに、小原家で彼女がイザという時に頼れそうなのがこの三人だけだったのを、あらためて思い至る。
親父が大怪我し、ハルも寝込み、勝はとうに出征中、女が最も無防備になる出産時に、弱音が出るのも当然だろう。
以前に千代がおっとり否定してみせたが、なんの、私の目にはいつの時も糸子は「けなげ」そのものだよ。
だいたいが健気という表現は、当事者でなく傍観者側の実感であるゆえ誤用にあらず、悪しからず、なのだ。

「また女の子て思てるやろ?」と快活に投げかける糸子に、上目遣い&僅かに首を動かし肯いてみせる、包帯ぐるぐる巻き頭した善作の、殺人的キュートさはどうしたことか。
親父それ反則だから。素知らぬ顔して千代みたいなボケかましたい衝動抑えがたく。むむう

こんな夜に生まれてきただけで、あんた一生分の手柄やで。
赤子に優しく語りかける糸子の独白ナレが、しみじみ沁みた。

暗い世相に、不幸なハプニングと、まるで生きようとする力を、無慈悲に問答無用で奪っていくような流れに対抗するように、
糸子の新たに創り出す力(仕事でも出産でも)がここぞと全開となる。
その圧倒的な明るさ、温かさ、逞しさ、頼もしさよ。
何がこようとどんと構えて負けないこと。ヘンに萎縮して自分を見失わないこと。
与えられた生命を完全燃焼させること。

命の燃え上がる輝きを感じて。生きよう生きよう明日も明後日も。




おまけ。

スタジオパーク出演(部分的にチラ見した)の正司照枝師匠曰く。
何でもない台詞は大切に。ウケる台詞は力まずさらりと。尊敬する師、藤山寛美の教えだそう。
流石でございます。
クラプトンの熱烈ファンで、自らの葬式にはレイラを流してくれるよう頼んでいる、とも。素敵すぎる。