無駄こそココロの栄養である/カーネーション(63)






というか、そもそも生きてること自体、何の意味があるかと突き詰めたら、それこそ無駄という結論に行き着くだろう。そんなもんである。
意味があるとかないとかの浅はかな幻想は捨てるが吉。すべての生命の中で人間だけを過剰に特別視するなかれ。


善作の弛緩しきった、糸子に「あとは任せる」とでも言いたげな、まるで悟ったが如き、静か且つ穏やかな微笑を見てると、なんだか無性に、怖くなる、不吉な予感で、落ち着かなくなる。

つまらない心配のしすぎだと、誰かが力強く否定してくれるのを、いつの間にか願っている。
そんな簡単に、これで思い残すことも無くなった、宜しく頼む、みたいな表情するのやめてくれ。善作・・・親父・・・。
胸の内の、嫌なざわざわが止まらない。
どうか、杞憂でありますよう。

なんだよ。なに笑ってんだよ。まだそばに居てやらなくちゃ。糸子を、頑張ってるあの娘を、これからも陰で励ましてやらなくちゃ。あんたが最大のあの子の心の拠り所なんだからさ。ねえお願いだから!あの子のためにも、頼むから、一緒に頑張ってやって、まだ見放さないでやって、一人にしないでやって、親父の、ここぞという底力を、気概を見せてやってくれ。
そんな、悟りきった顔で微笑んでくれるな。善作!親父!安心するのはまだ早いぞ。


「辛気臭い」世相に取り込まれ、生命力が萎びてしまっては、個々の人間として存在する値打ちを放棄したも同然。
庶民の生きようとするパワーの底力、逞しさをとくと見よ!とばかり、生命をキラキラと目一杯輝かせ、モンペお洒落の抜け道を、ツノつきあわせて画策する糸子以下、小原洋装店の女子パワーに元気をもらった。

閉めきった窓を思い切って開けたら冷たい外気が一気に流れこむ。
そうだ、外気を取り込んで、新鮮な空気を吸い込んで、淀んだ停滞ムードなど追い出してしまえ。ここぞと吹きとばせ。
はぶ(さむ)いはぶいと情けなく訴えてみせる善作も、心の内では、小原家の行く末に新しい風を吹かせた糸子の、後継者としての資質と手腕を、目を細めて喜んでいるはず。


目出度く寝込んでいた布団から起きだし、いまだ箱入りな孫たちへてきぱきと料理指南するハルに、ひとまずの安心。
誰かに必要とされている自覚こそ、高齢からくる精神肉体両面の衰弱を遅らせる、最も有効な処方箋らしいから。


サエを筆頭に、「新しもん好き&お洒落好き」の五人の女たちが、初対面でバリバリ視線戦わせて牽制しあうも、着物をモンペに仕立てる共通経験を経た後では、さっぱりと後腐れなく意気投合し仲良くなるのが、陰に回っての、ちまちました当てこすりや嫌味を言い合うような嫌らしさでない分、見ていて気持ちいい。
敵意は相手の前で剥き出しにしてこそ。陰でコソコソはクズの証拠。その点で、陰湿な陰口合戦で溜飲を下げる姑息なやり口とは無縁そうな、サエのような人は貴重。仕事柄もあるんだろうが、気風の良さとカラッとした気性の人が多い気がする(「その手」での学生バイト時の経験上)。ネチネチ根に持たないから付き合いやすい感じ、なにかと。

しかし「客の流れを止めてはお終い」との、糸子の経営哲学の真っ当さにはニヤリ。なんだかんだ言ってもさすが、家族と従業員を食わせにゃならん一国一城の主、商売の勘どころを見ぬいておりますな。
客の声にならぬ要望を、的確に掴んでの戦略の立て方が見事。そうなのだ、客商売に売る側の勝手な都合による押し付けや思い込みは通用しない、ひたすらお客のニーズをどう発掘しどう応えていくか、の闘いだから。お客第一。糸子の基本姿勢は何も間違っちゃいない、真っ当だ。それこそが伸びる要素だ。消費者はいずれ見抜くから。私腹を肥やすためだけか、それとも社会貢献の一石二鳥をも狙った、利潤追求かを。

糸子が戸棚から神戸の祖父母が届けてくれたお菓子を大事そうに取り出し、満面の笑みでほうばるのを見て、「心の栄養」の大事さを痛感した。
確かにお菓子は、タンパク・ビタミン・ミネラル等々といった実質の栄養成分で考えれば、「無駄」に相当する嗜好品だ。とりわけ戦争の非常時に於いては言わずもがなだ。
だが「無駄」には、得てして目に見えないが心に働きかける力がある、心を癒し、新たな元気を吹き込む力がある。
机上の四角四面な理屈では無駄に思えても、実際は無駄どころか、人を精神面から元気づける類稀なパワーを与えてくれる。
素朴なパウンドケーキを、噛み締めるように味わう糸子の表情から、当時貴重だった甘味に(無論そこに託した神戸の祖父母とコックの温情に)元気をもらっているのが、手に取るように分かる。
一見すると「無駄に思えるもの」こそが、力を育む源泉になるという、人間全般への深い洞察が光っていた。