カーネーション(64)走り書きその2







>年若き傷痍兵と我が身を引き比べ、彼らに申し訳ないと気詰まりを口にする、いかにも善作らしい繊細さ

善作を最高に格好いいと思ったのが、糸子へのミシンの手ほどきを頼みたくて、根岸先生に突如として披露した「土下座」の場面。

慌てふためきながら何とか押しとどめた彼女が、こんなこと初めて、と心底驚くのに、土下座くらい大したことない、いくらでもやれます、こないだは後頭部に下駄の跡がつきまして、等々の笑い話にもっていきながら、しかし目だけは笑ってない、真剣に頼んでる。
娘のためなら何でもやる。そういう親父の覚悟は、本気でしょうもない見栄っ張り男に出来る芸当ではない。家族のために我が子のために、やるときはやってくれる男なのだと、その時しっかりと心に刻んだ。

イザという時に誰かを守ろうとして、無意識に行動に移せる男は、まず信用できる。その上で腕っ節や才覚が伴えばなおよし。肝心なのは「身を呈して守ろうとする」その精神だと思うから。

当時は現代より遥かに男女とも「らしさ」の縛りが強かったはずだ。
善作も例に漏れず、というか人一倍か(木岡&木之元のおっちゃんたちと比べるに)、「らしさ」の刷り込みが強いように見受けられる。
火傷で不自由な身となり、リヤカーに乗せられ通院するという、守るどころか守られる弱き立場となったことに、申し訳なさを感じるのは、「らしさ」への意識あればこそだろう。

「らしさ」の定義から外れることが、重苦しい負担となってのしかかるのは、善作という個人のみならず、戦争という大義にも言えるかもしれない。
芳しくない戦況を、敗退でも撤退でもなく「転進」と耳障りよく言い換える新聞。
まだまだ戦う気満々だとことさら鼓舞してみせる、みせねばならない、何故なら弱さを認めれば負けだから。負けるは男子の恥だから、屈辱だから。生きて虜囚の辱めを受けず。洗脳効果絶大である。

その痛ましさを静かに見つめる脚本家の視線は、「らしさ」の下に覗く、一個の人間に注がれる。
善作が若い傷病兵へ抱いた罪悪感は、「らしく」ない自分を誤魔化すための嘘が原因だが、その根本には、実際以上に自分をよく見せたい見栄というより、こんな至らぬ自分で申し訳ないとの、他者への気遣いがあり、また世間の目をことさら意識してのことだったと思う。
そういう誰とも知れない監視の目は、今後の本編上のエピソードで、さらに表面化してくるのだろう。

一方で四角四面な「らしさ」の呪縛から遠く自由な地点で、二人の女が真摯に心を通わせる場面を、今またぼんやり思い出すにつけ、
昨日の回での、階下の女たちの賑やかさを布団に横たわり、ただ黙って聴くともなく聴いている善作の、穏やかで満ち足りた表情の理由はすべて、大義にも権力にもガチガチに縛られない、こんな女たちの自然体パワーにあるような気がしてくる。
本音を堂々と相手にぶつけることを躊躇わない、たくましい女たちと、「らしさ」にこだわる中にも優しさが垣間見える、愛嬌ある男たち(本日の義理の息子・勝を「素で」心配する善作も良かった)の対比に、渡辺脚本最大の妙味があると、以前にも増して感じているこの頃だ。