父の跡を継いだのは、男の子じゃなく女の子だった/カーネーション(66)







朝から不規則な間隔で襲いくる衝撃の余波も、さすがに落ち着いてきたので、少し、書いてみることにする。


善作の書いた「オハラ洋装店 店主 小原糸子」の文字を、大事そうに指でなぞる糸子の横顔を見ていて、支払いを渋る吉田屋の集金を期待通り娘がやり遂げ、上機嫌な父と連れ立って歩く夜道での、お前が男だったら一緒に商売やれてオモロかったのに、と嘆く父に、女だって商売やれる、と反論し、だがたちまち一笑に付され、女には家庭に納まる以外の選択肢はないのだと、まるで取り合って貰えなかった、あの日の小さな糸子の落胆と失望を、今また感慨深く思い返していた。

そして、放映初期の頃が赤毛のアンを想起させると以前に書いた印象は、(養子として)望まれたのは男の子で女の子ではないと、手違いが原因の真相を突きつけられて、身も世もなく大泣きする11歳の少女の痛々しさにあったのだと、あらためて思った。

集金業務を苦手とする父の肩代わりを首尾よく果たし、吉田屋の女将から、お父ちゃんよりよほど商売上手だと嫌味を言われた糸子だが、そうでなく、あれは父を喜ばせたい一心からの機転に過ぎなかったはずだ。
往来を集金の成功を叫びながら、善作めがけ一目散に駆けてくる少女は、父によくやった!と抱きしめられたのが、嬉しくてならないのだ。父が望んだ男の子ではない女の子の自分が、如何に有能であるかを知ってもらえるのが、誇らしいのだ。

感謝の言葉を、素直に口にできない父と、素直に受け取れない娘の、互いを鏡とするような似たもの感の、以前は頻繁に見られた「懐かしさ」に目頭が熱くなった。
たとえ善作の言葉が表面上は、糸子の用意した秘蔵の酒やら、糸子の縫ったウール地の温い国民服やらに向かっていても、あの「おおきに」は間違いなく、立派に小原の店の後継者に育ってくれた娘へ、最初で最後に贈った、父からの心よりの感謝だった。

布団に横たわり、階下の女たちの賑やかなお喋りを、善作がいやに遠い目で曖昧な微笑を浮かべながら聞いていた時点で、おおきに、の声なき声は、画面から十分に伝わってきてはいたのだ。

妙に出立前にあらたまって娘への感謝を述べる善作の、穏やかすぎる表情を気に入らなく思いつつも、最終決定権は本人にあるのだから、気持よく送り出してやりたい、と自分を納得させただろう糸子と同じ気持ちで行く末を見ていた。

父のイリュージョンに行かないでくれと絶叫し、必死で追いすがるも、往来にへたり込んでしまう糸子は、父に置いて行かれる心細さを隠そうともしない、寄る辺ない子どもそのものに見えた。