ミシン供出の件。






※本日のカーネーション感想:追記(半分恒例化)


なるほど、ミシン供出を頑として拒むのは、戦地の兵士へミシンを銃弾などに加工しての新たな武器補給を拒むも同然、よって非国民の謗(そし)りは言い得て妙、と考える向きもあるのか。

だが男たちが戦場へ赴いたのは、天皇や国家を讃える公言の裏に、守れるのは他の誰でもないこの自分なのだとの自覚を、否応にも思い起こさせる妻子や親などの身内や、友人知人など、周囲の人々の存在があったに違いなく、

その銃後の者らの生命を支える道具(糸子の場合は父の買い与えたミシン)までも奪い取り、銃弾等の加工材料として供出されるのが、本当に彼らの満足につながっただろうか、口には出さずとも、本末転倒の成り行きと、かえって辛く感じるのではないか。

大切な人を守るために、勇をふるい起こして戦争に行った彼らの望みが、銃後の者の生命をつなぐ糧を奪ってまでして、戦局をひっくり返す決定打になど、どう転ぼうがなり得ようもない、大した時間稼ぎにもならない蛇の生殺しのため、であるわけがない。

戦いや殺しそれ自体が目的なのでなく、ただただ大事な人を守るためと信じて、徴兵された庶民と軍部では、戦うことの意義に関するベクトルの向きは、まったく違う。そこに気づかないと見方を誤る。

こんなセコいトリックにまんまと引っかかり、熱病にとりつかれたように軍部(一般兵士を窮地に追い込んだ元凶)の味方をする典型が、国防婦人会の澤田さん以下、ということかと。(善人が一番の悪人、の見識こそ「言い得て妙」の表現に相応しいのでは)
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」、有名な聖書の一節を思い出したり。

思想だの主義だのに熱狂するあまり、生命はメシ食えてなんぼ、の地に足の着いたまともな庶民感覚を、鼻で笑い、とことん虐めるような不健全国家が、いつまでものうのうと存続できる道理がない。
チームオハラを守ろうと必死になった糸子は何も悪くない。
どうせ戦争終わればそれまでの主義思想など、あっさり逆転するのだから。
その程度の、吹けば飛ぶよな価値だったわけだこの国の人間にとって。
この事実から鑑みても、ミシン供出するしないのどちらに理があるか、論ずるまでもないことと思う。