変わるもの、変わらぬもの、変えてはならぬもの/カーネーション







世の有りさまや国家の方針は、拍子抜けするほどあっけなく、以前とは様変わりするのが常だが、
今日、明日、明後日と続いていく人の生活は、人が命を繋ぐための基本は、太古の昔から変わらない。
またもう一つ「変えてはならない」ものとして、以前にも書いたが、殺伐とした世情では無駄という表現にいきつくだろう文化に属する全てのもの、「だんじり」は『カーネーション』におけるその一つの象徴であり、そういった文化を理解し愛でる豊かな心も、次世代へ受け継ぐべき遺産なのだという思いを新たにさせた、昨日の放映回(70)ではあった。

学校という世間から、戦争を過剰に美化して教えられる子どもの素直な感性を、けして頭ごなしに否定せず、とことん納得するまで付き添い、見守りながら気づかせていくという、糸子の優子に対する、子どもだからと自己所有物的な雑な扱いにしない、小さくとも一人の人間として敬意を払った、母として(また今生に命を授かった先人たる)大人として、ゆったりと構え優しく我が子を包みこむような、余裕ある接し方がとてもいい。

世間や誰それのことはひとまず置いといて、自分は何がしたい、何が好き、何を楽しいと思う、何をきれいだと感じる、その自覚があるかないかの差は、とても大きいはずだから。

しっかり自分を持つこと、くるくる節操なく変わる軽々しい世の中に迎合しすぎて、自分自身を見失わないこと。

高価な(昌ちゃんの鋭い突っ込み的中♪)色鉛筆を買い与えられて大喜びする優ちゃんには、それが難しく堅苦しい言葉で諭される以上の説得力があったことだろう。
絶対!絶対!面白いに決まってる!のだと、張り切って観始めた戦争の記録映画が、彼女が期待したキレイや楽しさとは真逆の性質であることに、じわじわと気づいていく表情変化が、とても真に迫っていて、演技とは思えないほどだった。

これ!と強い願望を抱いたら、絶対に後には引かない性格も親(糸子)譲りらしい優ちゃん。
映画鑑賞をめぐるこの母娘の攻防に、「以前どこかで見たような(苦笑)」と既視感を抱いた向きも多かったのでは。


記録映画とはいえ、戦争モノがたいていの男の子の好物なのは、今も昔も変わらないのが可笑しかったり。
糸子たちにはまるでウケなかったらしいが、周囲の男の子たち(小学生くらいか)や後ろに座ってたお爺ちゃんは、結構面白く入り込んで観ている様子で、その両者の温度差がなんとも。

渡辺脚本はこれまでも、勝と従業員たちが戦況を報じる新聞を夢中になって回し読みするエピや、開戦!の一報を知るや、途端に男どもがわいわい町の一角に集まってきて、各自好き勝手な予測をして盛り上がるエピなど、男と女の戦争の受け止め方の違いを、目立たぬ些細なシーンできっちり書き分けてきた印象があり、
これまでありそうで意外となかった(と思う)、新鮮かつ鋭い着眼点として面白く見ている。


アカと呼ばれる思想犯の逮捕劇を間近で目撃し怖がる優子に、アカという言葉から美しい色の連想へと、咄嗟につなげる糸子の良き母ぶりにも胸打たれた。
言論統制/弾圧の暴力(昨日話題にした某感想欄もレベルは違えど似たようなことしているわけだが)から、幼き我が子のまだ柔らかで純粋な魂を、出来る限り遠ざたい親心が瞬時に閃かせた、豊かな感性の世界。

どんよりと暗くたちこめた闇の向こうに、輝く七色の虹を見よう、見つけよう、とする心こそ一番の宝、人を人たらしめる最後の砦。


善作を喪ったショックを引きずり、生きてても何の楽しみもない、死んだほうがマシと愚痴り続けるハルの、糸子が口に運ぶお粥を(愚痴とは裏腹に)しっかり食する、したたかな茶目っ気に救われる。
孫からの言行不一致に対する突っ込みを、まるで待ち構えてでもいるかのような(いや予測してたなたぶん、そこは年の功で)、余裕しゃくしゃくたる態度や、ちらっと糸子を見やる顔つきが、可笑しいやら可愛いやら。
ハルさん、「渋々で」いいから長生きしておくれ。