食べてへんのと寝てへんのと暑いんと五月蝿いんと/カーネーション(75)






生きる。
その副題通りの、またも圧巻の回だった。


先ほどまで玉音放送が流れていたラジオを、緩慢な動作でオフにし、ぼんやりと心ここにあらずの体ながら、「さ、お昼にしようけ」と呟く糸子は、アンシリーズ最終巻の影の主役にして名キャラクターたる、老メイドのスーザンを彷彿とさせた。

家族の安否を含む、第一次大戦の戦況に過剰に入れ込み、振り回され過ぎて、堅実な生活の基盤が疎かになると、生活のプロたるスーザンが見事に手綱を締める。
とにかく空腹では埒があかない(無理にでもなにか食べよう、食事をしよう)、と浮き足立つ皆に現実的な提案をするのが、初読みした当時(10代半ばくらいだったか)、大袈裟でなく言葉をなくすほどの衝撃だったのを覚えている。
地味で平凡な生活の有り難さ、飾らない本物の尊さが何かを、おそらく初めて意識したんだと思う。

最後のショットも素晴らしかった。
左手奥に台所へ向かう糸子を、手前にドカンと大きくミシンを捉える。そこには堅実に日々を送る市井の庶民の「生活」の二文字の重みが、厳然とある。それをワンショットで表現する。
静かな落ち着きを湛えた(ローアングルやアップショットの多用に、担当メンツ中ピカイチのカメラワークがもたらす印象なのだろう)田中健二演出の、言葉以上に雄弁な映像にぐっときた。


ワシワシワシ、と耳鳴りに似た蝉の声が、聞く者の頭蓋骨に反響する。
勝の死を知らせる紙面を、微動だにせずぼんやり見つめ続ける糸子の、何も考えられない真っ白な頭の中そっくりに。

続いて知った泰蔵の死にも、既に正常な反応が出来ないほど、心身ボロボロに疲弊してしまった糸子の哀れさ。
優子と直子の幼き姉妹が、母の両手のひらを一杯にするほど摘んできた、赤い花びらを一目見て、胸がぎゅっと痛くなった。
モノクロの回想シーンに移行する前に、あの花びらの一つ一つが、今は亡き、糸子の愛する男たちの生命の象徴に思えて、急に息が苦しくなった。

陽炎揺らめく商店街の、人気のない寂れた往来で、白っぽい日差しを浴びる糸子が幻聴した、だんじりの賑やかなお囃子。
惹かれるようにして訪れた「だんじり」を目にした途端、止めどなく溢れ出てくる記憶。
今はもうどこにもいない、懐かしい人たち、懐かしい光景の数々。
そして。溢れるのは涙。溢れるのは感情。
喉も裂けよと慟哭する。悲しみを解放する。
こころを取り戻す。赤い花びらの。
それはカーネーションの色、糸子の色だ。
思い出せ。本来のお前に帰れ。
そんなメッセージをも、糸子は無意識にでも感じただろうか。


ウチは死ねへんで!
付近に落ちた焼夷弾の、燃えあがる炎に赤々と照らされた顔をキッと空へ向け、歯を食いしばり鬼の形相で睨みつけながら、精一杯の声を張り上げ「生きる」宣言をする糸子。

生命を諦めない。
生きると決めて過酷な生を、諦めない。

死んでいった者たちのためにも、必死に生きる。生きてやる。死んでたまるか。
見とれや!そこの敵さんも、お天道さんも。

或いはそんな気概を込めた叫びだったか。


玉音放送の受け止め方にも、渡辺脚本はさりげなく、男女の違いを書き分ける。
木岡のおっちゃんは「敗けた!」と悪態つきで嘆き、
それを聞いたチームオハラの女たちは「終わった(ってこと)?」と顔を見合わせ、たまらず外へと走り出る。

「敗戦」と受け取るか、「終戦」と受け取るか、
とっさのリアクションに本音が出る、そんな細部へのこだわりが興味深い。