群れない、慣れない、頼らない、という生き方






一昨日だったか偶々タイトルに惹かれて録画しておいた、画家・堀文子氏のドキュメンタリー番組が、予想以上に良くて、その他のスティーブ・ジョブズや都倉俊一の特集番組とともに、ディスクに一括保存したんだったが、
ご自身の生き方のモットーを(まるで絆や仲間といった「今どきの流行りの傾向」とは逆行するかのような)「群れない、慣れない、頼らない」だと朗らかに宣言する心意気の、どこにも嘘やハッタリの混じらない人物像が、インタビュアー(にしてディレクター)戸井十月との会話の内容のみならず、仕草や表情、言葉の言い回しや声の響きからも伝わってきて、
どこにも無理な制約や負荷のかからない、ただ好奇心の赴くまま、現世の時間を自由闊達に浮遊する、逞しくも楽しい生命の極上の活かし方に、観ているこちらまで、伸び伸びと明るく解放される心地がした。

形式や権威とは無縁、決まった画風もなし、外交官の夫を亡くした44年前からずっと大磯に一人で住んでいる。
身軽になった40代から世界各地へ頻繁に出向くようになった。
土地によっては3年にも及ぶ滞在もしたり。
フランスやイタリア、はたまたアマゾンやヒマラヤ、好奇心が刺激されればどこへでも、隔てなく躊躇なく、どんどん行く。
行って本場の(有名美術ではなく)ありのままの人や花や風景を、気が済むまで両の目に焼きつける。

堀氏の強調する、何者にもなりたくない、との言い様は、既成概念や固定観念にからめとられ、強制的に(世間から)何者かにされてしまうことへの、弛緩的に(自分自身が)何者かであるように思い込むことへの、渾身の力をこめたノー!なのだろう。

転がる石に苔は生えない。なんと堂々たるロック魂であることか。
93歳とはやにわに信じがたい、いまだ色褪せない柔軟かつ瑞々しい感性、
子どものようにピュアな、脇目もふらず真っ直ぐ対象に注がれる熱き好奇心、
しかもチャーミング、「少女のよう」とのナレの例えが誇張でないのは、はにかんだ茶目っ気ある話しぶりからすぐ分かる。

ものを考える人間が「何者か」の定型になど納まるわけがない、そう単刀直入に言い放ち、さりげなく爆弾投下した後は、ただニコニコと無邪気に微笑んでいらっしゃる。

肩書きを求めず
ただ一度の一生を
美にひれ伏す
何者でもない者として
送ることを志してきた

美や真理などというものは、単に生きることからすれば無駄に相当するだろうが、それでも人間には必要不可欠であり、効率や損得のみで我々は生きてはいけない、との主張には、先日同じ趣旨のことを書いた身として(※カーネーション記事にて)大いに共感。
そういえば過日観た「100年インタビュー」の塩野七生もまた、同じ意味のことを話していて、偶然の符丁にしろ、ちょっと嬉しかったんだった。
ちなみに堀氏は、美とは活き活きした力、生命力のことで、生きていることそのものが美なのだと感じるそうだ。

美というものは
役に立たないように見えるが
それでいいのだと思う
役に立ったら 欲と結びついて
美は消えてしまうだろう
美は形のないもので柔らかく
仰々しい姿を見せない
では、一体何だろうと
考えてみれば
永遠に輪廻する命
ということになるだろう


ところで日本中がバブル景気に浮き足立っていた頃を、さも嫌そうに顔をしかめて「下品」と一刀両断、世界中に晒した自国の信じがたい品性下劣にいたたまれず、トスカーナに脱出、三年間暮らしたという堀氏も、バブル初期の頃は、女とジャーナリズムがしっかりしていればなんとかなる、と思ったそうだ。
が、そのどちらも物欲に溺れ、金権主義にたやすく雪崩を打ってなびくのを見て、もう駄目だと悟ったらしい。

そうか、せめて女とジャーナリズムが(暴走を止める)防波堤の役割を果たせていたら、日本の良識もまだまだ捨てたもんじゃないと希望が持てたかも、と同じくバブルの恥知らずな狂乱にほとほと嫌気がさしてた一人として、深く納得してしまった。

外部を意識できず内輪だけで盛り上がる「お安い」狂乱に、冷水をぶっかけ目を覚まさせるお目付け役を、誰も引き受けない時点で、終わりは見えている、いずれ共倒れするのは明らか。
それがシビアな現実。目を逸らそうと、目の前の現実が今より良くなるわけもなく。
代わりに問題解決してくれる都合のいい誰かなんて現れやしない。「なんとなく」お助け人を待ったり、状況が自然に回復するのを待ったり、そんなことを「なんとなく」繰り返すばかりで、何も自ら働きかけず、幸運を待ってばかりの(自分が一番楽な)受身で、我々はよくも今まで平穏無事に暮らせてこれたもの。単なる幸運なだけなのを、さも自分たちの手柄のように思い上がって。

みんな悪くない。みんな被害者。与太な理屈に往生際悪くしがみつく。311以後を以前と変わらぬ意識でいいと思ってる。何も考えてない。自分は悪くない。自分に今回の事故による惨事の責任はまったくない。何の咎もない、不運で可哀想な被害者である。まさか!

全員が何らかの意味で、加害者であり悪人だったと、一度とことんまで観念しないと先へ進めない。
堀氏のいう、群れない、慣れない、頼らない、の精神を一人一人がおのれの中に確立してこそ、真にみんなの「調和」が保たれる。責任や覚悟から逃げまわる無責任な烏合の衆に、いったい何が出来よう、何の価値があろう。