問題の本質から、逃げているのは、誰だろう






季刊雑誌SIGHT(サイト)の50号を購入。「原発報道を終わらせようとしているのは誰だ」と題し、既存のメディアが総じて触れたがらない(それこそ「穏便に」済まそうと及び腰になっている)問題の暗部へ、挑戦的に斬り込む姿勢や良し。

ところで渋谷陽一の巻頭文に目を通して、はたと気づいたこと。
何故に最近こうも、(あえて言うが)たかがドラマのいち登場人物たる『カーネーション』の戦意高揚に張り切る婦人会の澤田さん、いや正確には彼女自身というわけではなく、彼女を過剰に擁護したがる人になのだが、苛立ちを覚えてしまうかが。

同雑誌の巻頭文の出だしはこうだ。「結局、日本は、我々は、今回の震災と原発事故から何も学ばなかったのではないか、という気持ちになってしまう。」

現状は変わらぬどころか放置され、より酷い深刻な事態を招きつつあるというのに、すでに過去を語る調子のメディアの論調を真に受けた多くの日本国民は、「原発事故は収束に向かって進み、徐々に事態は改善されていると思って」やしないかとの問いかけに、果たしてどのくらいの数の人間が胸を張って「そんなことはない」と否定できようか。
過ちを過ちときっちり認め、未来への苦い教訓とする決意があると自信をもって答えられようか。

等々と考えていて、ああそうかと。

戦争を過去の不幸な出来事としてしか捉えてない、どこか他人事(自分とは無関係という)感覚からくる嫌な余裕が、みんな悪くないだの、あれは仕方なかっただのと曖昧に一括りにする無責任な残酷さ(残酷だと思う、当事者にしてみればとんでもない話だろうから)を引き出してるんじゃないか、
誤った方向を支持したせいで、皆に取り返しのつかない迷惑をかけた罪を、罪と素直に認めることなく、時代のせいや他の何かのせいにすることで、仕方なかったのだとうやむやにしてしまう、それは「過去の当事者がというより、受け止める我々の意識の問題」なのに、それがさっぱり認識できていない頓珍漢な視点の甘さと無知に、警告を発したかった偽らざる自分の気持ちを、ようやくハッキリ確認できたことだ。

繰り返すが問題は過剰に過去の(我々が「共有」する)罪から目を逸らし、あの人だってどうのこうのと、何故か些細な個人の問題に「すり替えて」庇いたがる人の、深層心理の方にこそあるのではと感じる。

たとえば子どもの躾のつもりで(他者から見れば)虐待に他ならないような、行き過ぎた行為をしてきた自分への、格好のいいわけに、ドラマの登場人物を利用している(自分は悪くないと思い込むために)など。
問題を一個人の些細なことと過小に見積もりたがるが、そういう間違った考えの犠牲になった側の災難は、なぜ簡単に帳消しにされてしまうのか、
そんな理不尽が、たとえば今回の原発事故の件でまかり通るなら、当然にして倫理的な問題が生じるのは必定だろう。
その程度の思考の応用も効かない単純脳ミソが、おのれの醜いエゴを見栄えよくくるんだ感情論で、上述の巻頭文の主張を考え過ぎだの杞憂だのとはとても言えないはずだ。というか、それこそ許されないことと思う。

もう一度、サイト巻頭文からの抜粋を(終わりの部分)。

「本来、この問題は日本の抱える緊急の問題として国民的に共有され、すぐにでも対策がとられなければならない。ところが国はまったく動かず、というか動いているふりをしながら どんどん問題の本質から逃げて行き、メディアはまるで申し合わせたように 原発に関する報道を続けている。
言うまでもないが、逃げても何も解決しない。そのツケを払うのは我々自身だ。そしてそのツケは、自分や家族、同じ国に住む人たちの命や健康を脅かすのだ。」

問題の本質から、逃げているのは、誰だろう。