ポアロ経由でコロンボへ


名探偵ポアロの新シリーズがじき放映されるとか。
なかでも『オリエント急行の殺人』の回は、映画との違いが気になる。観て確かめねばと。
それで、別段ディープなファンでもなんでもないが、一応過去に録り溜めたDVDなどチェックしてみようかという気になり、ヨークシャーテリアだかの、毛布みたいにモコモコした愛玩犬が活躍する回を視聴、のんびり間延びしたかのようなテンポに(まるで初めて観るかのように)面食らう。

だがイギリスのみならず日本でも、この頃のTVドラマは大概今と比べてテンポが遅く感じられるのでは、などとつらつら思いつつ、犬といえば、刑事コロンボにも登場してたような、アレなんだったっけ、とやおら気になってきて、とりあえず手近な場所を探して、たまたま「発掘」したのが、『別れのワイン』の回だった。 

というわけで、刑事コロンボ/別れのワイン、を、簡単に箇条書きにて感想メモ。


◇原案ラリー・コーエン、とあるのを、どういうわけか(活動時期が違うのに)コーエン兄弟のどちらかと勘違いしかかったのは内緒。
この人の脚本で最初に観た映画はたぶん『殺しのベストセラー』だったと思う。 

◇子守が見つからず、予約したレストランに奥さんを同伴出来なかった、とコロンボの台詞にあり、意表を突かれる。
まだそんな小さな子どものいる家庭環境だったとは。
風貌からは窺い知れないが、案外見かけより若かったりするのか設定年齢。

◇殺害過程など説明的部分は映像に任せるから、台詞が自然で違和感が少ない。
額田やえ子の翻訳の腕も貢献してそう。
コロンボカッシーニ弟の訃報をその婚約者に告げるシーンも、もたつく定型のやり取りはばっさりカットし、いきなり彼女の涙へ繋ぐ脚本(スタンリー・ラルフ・ロス)の引き算センスに好感。

◇しかも開巻しばらく(それも結構長く)カッシーニ兄ことドナルド・プレザンスの、弟殺しに至る背景からアリバイ作りの過程までに焦点が当てられ、主役コロンボの出番はなかなか巡ってこない。
全編通じての特徴にしろ、ここまで引っ張るかと、ン十年ぶりかで久々に観てちょっと驚く。

カッシーニ兄のワイン(コレクション)への執着もまた、ワインの価値がわからず金銭を価値の最上に置く、(兄からすると)俗物の典型たる弟の「物欲」と何ら変わらない、モノに執着する意味では同じことに思える。
何かや誰かへの執着が度を越して強いと、その不均衡による歪みはいずれ悲劇をもたらす。
「我欲」の暴走と引き換えで失うものの中に、人の生命があり、だがそれは大したことじゃないと気にもされない。
その時その死の現実にショックを受け、嘆き悲しむ他者の存在は透明にされる自動的に。
一点に集中する執着心は周りを見えなくする。
どんなモノも人も、いずれ消えゆく道理なのを忘れて、忘れたがって。

12年の長きにわたり、控えめかつ忠実にカッシーニ兄を支えてきた秘書にしても、最後の最後で自己中全開な迫り方(結婚の)に豹変するほどに、兄への独占欲が(常日頃のたしなみを)越えてしまった。
彼女の場合は今度は「人」への執着、やはり度を越した(我欲の暴走による)執着、なのだった。

むろん、人間は欲望と執着なくして生きられない、のもまた真理。丁度いい落としどころを見極めた上でなければ、やたらな執着は(欲望の開放は)命取り、ということなんだろう自分にとっても相手にとっても。

主役のコロンボにしろ、犯人の大体の見当がついた時に、上機嫌で口笛を吹く、というシーンが二箇所あったかと思うが、あれも無意識に露出した、他者を犠牲にして我欲を優先させたがるあさましき不謹慎、紛れもない人間本性の姿ではあるのだ。

どこを見てもむきだしの人間だらけなのが、まるで鏡に強制的に向き合わされているような、微妙に落ち着かない感覚を呼び起こさせる点で、本作への評価の高さも頷ける。
哀しいような笑えてくるような。