うちは、立ち上がらなあかん。/カーネーション(135)

第24週『宣言』


お恥ずかしい体たらくだが、オノマチ糸子時代の回想シーン以降、
タガが外れたように泣けて泣けて、今も映像や言葉の断片を思い出すと
また涙腺がヤバくなる。

最後の、糸子の決意表明でとどめ刺された感。
油断も隙もない渡辺あや脚本にまんまとやられた。もってかれた。


来し方を振り返り、なぜあの賑やかな懐かしい世界から一人切り離されて、
今の自分はこんなにも孤独なんだろう、と介護ベッドの中でつらつら思う
夏木糸子の、諦念を含んだ溜め息混じりのナレも、

懐かしい写真群に順々に愛おしげな視線を注ぎ、最後に北村の写真に目を止めて
「ここで泣いたら(寂しくなるぞと忠告した)あいつの思うつぼ」、
だから「うちは泣かへん!」と北村の写真に向かって精一杯の意地を張るも、
天井に顔を戻した途端に目尻から涙が一筋、伝い落ちるのも、

ほどなく孫の里香が布団持参で隣にやってきて、そんな糸子の気持ちを察したように
「あたしがいるから」と(糸子と目を合わさずに)ぼつんとそれだけ、声をかけるのも、

どのタイミングでも全部ど真ん中にガツンとくる、きてしまう、これまでの積み重ねが
思い出の数々のシーンが台詞が、どっと押し寄せるのだ胸の中にいちどきに。
困ったもんである。


あと、朝ドラの中で朝ドラを見ている糸子、というメタ手法に吹いた。
さらに話があると急かす直子と優子に、昼の再放送で見ればいいじゃない、と落とさせる
サービス精神の手抜きのなさ。
ほー、いちばん太鼓ってのやってたのか、当時は8時15分開始だったんだ、などの
トリビアも楽しや。相変わらず最高のスタッフ陣であることよ。ご馳走さん。

優子&直子に年齢を理由に引退を勧められるという、しかもこれまで手伝いを頼んできたのは
母親を元気づけるためで本当は必要なかったのだと、親の心子知らずのあまりの言われ様に
洋裁師の先人としてのプライドをずたずたにされた格好の糸子。

だいたい糸子という人は、店の看板譲る云々の時の言動見ても分かるように、
ものすごい「ええカッコしい」大好きな人なので(苦笑)、こういう不躾な言われ様は
相当にこたえたと思うのだが
(黙って聴いている間中、身体がショックと怒りで小刻みに震えていた)

娘二人をお手玉投げて(里香グッジョブ)追い返した後で、この屈辱のままでおくものかと
「うちは、立ち上がらなあかん」とぐっと表情を引き締め、決意を重々しく口にするのが
糸子の糸子たる所以である。だからこの人が好きなんだ、と嬉しくなる。

歳をとっても格好良さは衰え知らず。だがそんな先人はきっと多いのかもしれない。
持ち前のバイタリティーでは若者に引けを取るどころか、優っているかもしれない。
そこは単純に人生経験の差がものを言うから。たくましさに学ぶ点は多いと思う本当に。

床に落ちたお手玉を拾おうとする里香。可愛いだけでなく優しい子なのが嬉しく。
糸子を見つめる柔らかな表情、あどけなさと素直さと優しさの混合した、あの豊かな表情に魅せられた。


以前、311を語る辺見庸の言葉(『瓦礫の中から言葉を』)をNHKEテレの番組経由で知ったんだったが、
あの震災以後に、自分より年若い親類縁者、友人知人を亡くした老人たちが、
何故自分のような年寄りが助かり、あの人たちが死んでしまったのか、
生きる価値などない自分が生きているのは大変な間違いではないのか、と自責の念に駆られ、
これ以上周りに迷惑を掛けたくないと死を望んでいる、うちの母親もそうだ、と同氏は語り、
だがそれはおかしい、そういう社会的弱者が生きづらい世の中はおかしいだろうと、
そういう人たちが誰に気兼ねするでなく、堂々と自分の人生を生きられることが大事なんだと、
繰り返し熱っぽく訴えていたのが、印象に残っている。

また老人だけでなく、愛する者を311の震災で喪ったことについて
「自分だけが助かって申し訳ない」と負い目に感じ、密かに苦しんでいる人は多いと聞く。

そんなことを踏まえながら、糸子に「うちは、立ち上がらなあかん」と言われると、
そのひと言に明るい光明が宿るようで、我知らず胸が一杯になる。
そしてそのひと言に、願いを託したい気持ちになる。
なんでもいい、とにかく生きていてくれて良かった、死なないでくれて嬉しい、
どうか生きて下さいこれからも、生きていて欲しいですあなたに。
生命があること、そこに無事にあること、その奇跡を、一緒に大事にしていきたいから。






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