現実を見ようとしない、それが現実。(by宮崎駿)

タイトルは『本へのとびら』という著書の、
三月十一日のあとに、という章で語った言葉から。

「今ファンタジーをつくってはいけない」とも。

二つの言葉は密接にリンクしている、と感じる。

「現実逃避」したがる大人たちの手に余る代物だから、
(今は下手にファンタジーには)触れてはならぬ、と言いたいのかもしれない。

真に力ある新しいファンタジーは、今の子どもたちの中から出てくることを期待して、
「次世代が次のものをつくるんです」という。

彼らが生き延びたら、と前置きした上で。
(こういうシビアな言い様が宮崎駿らしい)


311以降、我々を取り囲むヘビーな現実が
次々と容赦なく露になっていく。

バブル経済のファンタジー
安全神話のファンタジー

何度となく痛い目を見て、
それでも「現実を見ようとしない」、大人たちの現実。

ツケは未来へ、子どもたちへ、丸投げしている自覚からも
知らぬ存ぜぬで逃げ続け、
責任は誰か別の人や所にあると思いたがる。
自分は無関係だと思いたがる。

だが日本に住んでいる以上、その理屈は通用しないはずだ。
我々は誰一人として、無関係などとは言えないはずだ。
あの身体も心もバラバラに引き千切られるような痛みも苦しみも
本来ならばこの国のあまねく大人たちが平等に背負って然るべき
痛みであり苦しみであったはず。そうではないのか。

被害者であり、かつ加害者でもある私たち、
何の罪もない子供たちに対して、その未来に対して、
どう謝ればいいのか、償えばいいのか、

少なくとも目を逸らして「現実逃避」している場合でないことは確かだ。
そんなことはもはや「許されない」、これまでの
愚かな「やり口」が通用しないのは、今や明白なのだから。

安閑と日々を生きられたのは、ただ無知だったから。
危機はじわじわと無情なる正確さで押し寄せていたのに。
気づけなかった、
我々の滑稽と悲哀、終わらない胸の痛み。

もっと、ゲームを続けていたい。
ずっと、夢にまどろんでいたい。
このまま、ぬるま湯に浸かっていたい。

いつかファンタジーは現実を忘れるための
麻薬のような使われ方をする。


ファンタジーを大人の言い訳に使うな、と
宮崎駿は言いたかったんじゃないかと思う。
口実に使ってくれるな、そんな悲しい情けない使い方はしてくれるなと。






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