「オモロイ」が生き甲斐のバロメーター/カーネーション(134〜139)

第24週『宣言』

今週イレギュラーで書いた分以外の、
一週間のまとめ放映を視聴した感想(ややこしい)を、思いつくまま箇条書き。


◇オーダーメイドにこだわる職人の意地も、80年代の若者たちにはさっぱりわけわからん、年寄りの意固地にしか映らない、という世代間ギャップの物悲しきユーモア。
バブル世代の、それも阿呆ぼんとくれば、ヤワにしておおらか(頼りないがコセコセしてない)が顕著な特徴だったのかもしれない。
ハート型カードの一文に、駄目押しで末尾にハートマークをつける、あからさまな媚びを前面に押し出した軟弱性に、時代の風潮を切り取る視点の確かさ、鋭さを感じる。

身体がしんどい糸子に、代わりに後片付けを頼まれ、「だって今日はおばあちゃんの番じゃん」という里香のとっさの口答えも、経験と想像を巡らせる範囲が浅いゆえに、どうしてもマニュアルに基づき判断しがちな若者(この時代に限らずだろうが)の特性を巧く掴んだ描写だと思った。

守の合理に徹したビジネスライクな論理展開(新ブランドの成功には、すでに名を馳せた娘さん達三人の協力要請が必要)には、糸子のええカッコしいも形無し。
何となし連想したのは、大袈裟に威嚇しながら向かい来る敵に、さもめんどくさそうに拳銃一発ぶちかまし、あっさり勝負を終わらせてしまうインディアナ・ジョーンズのシーン。
損得を排した個人の矜持より、損得を基調とする社会の合理が重視される時代への変遷の象徴とも見える。

◇当時を彷彿とさせる中森明菜ネタの、下世話さの盛り込み具合がいい感じ。

◇恵さん、浩ちゃん、ミッキー、とオトメンが続くのには、さすがに職業的傾向を考えてしまう。
そういえば映画『プラダを着た悪魔』にも、脇キャラに同様のタイプがいた気がする(ウロな記憶だが)。

◇前のまんまが良かった!とブランド立ち上げのストレスを爆発させ、泣きじゃくる孝(たか)ちゃんの図にも、渡辺あや脚本による、折り込み済みの未来予測がちらついて仕方がない。恐るべし。

◇一度は感情まかせにくしゃくしゃに丸めて捨てた、阿呆ボンらにもらったハート型のカードを、デザイン画を描く時に片時も離さず傍に置くのは、お守り代わりか、死んでも口には出さぬ(出せぬ)糸子の「ええカッコしい」の心細さが、よく出ていると思う。

◇糸子には実の娘三人には頑なに意地を張るのに、孫の世代、里香やアホボンら、には意外と素直になれる一面も。
ここにもハルや千代の代から受け継ぐ、「祖母と孫」の親密な関係性が見て取れる。
世代は変われど、関係性の法則は変わらない、果たしてその因縁は血のなせる技なのか。

◇通話の際の夏木糸子の「もしもし」の言い方が、うちの京都の義母を彷彿とさせる口ぶりで地味にウケる、というのはここだけの話だ。

◇商店街の通りを、実家目指して競り合うようにせかせか歩く優子と直子の迫力に圧されてか、すれ違った爺さん(だったような)が、思わず脇によろっと一歩退くのも、さりげにツボ。

◇夜寝るんが惜しゅうて、朝起きるんが楽しみ。――オモロイこそ生き甲斐、とスピルバーグのような事を仰っしゃる。
年を取るというのは、余計な迷いをどんどん削ぎ落し、シンプル志向になること、大事なただ1つを見出す過程、を指すのかもしれない。

◇人間ほんまに夢中な時は苦しそうな顔になるもんや。運動選手とか見てみい、試合中はみんな苦しそうやろ。そう言って里香の不安を、さんさんと輝く太陽の力強さで吹き払った夏木糸子の、孫を見つめる柔らかな表情がとてもいい。
内側からにじみ出る自然な慈愛が、画面いっぱいに満ちていて。

◇新ブランドお披露目が大成功に終わるだけでは物足りない(つまらない)と言わんばかりに、これまた因縁の春太郎(=冬蔵)を絡ませ、ずっこけた笑いに転換するのも渡辺あや脚本ならでは。
格好つけたことの照れ隠しのように、「なんちゃって」な揺り戻しを用意せずにはいられない、それが愛すべきカーネーション・クオリティ。

◇かくて世代から世代へ、受け継がれていく「だんじり」精神。
糸子と里香、互いに収穫ある有意義な出会いだった、貴重なギフトを互いから貰った。
また糸子にも、一人であって一人ではない、豊かな孤独とでも言いたくなる(仲代達矢曰くの)自由さがある。

一度手にした宝は消えない、なくならない。ずっと胸の中に輝いている、輝きを失わない。
わたしが覚えている限り、あなたを愛している限り。

◇ハルさんの「鰯の炊いたん」も世代から世代へ受け継がれ、金券屋の兄ちゃんの口に入るまでに。小原家の味の伝承、次は里香の番か。
(で、いつか学ランの君に食わせてやって欲しい、ハルさん自慢の一品を)






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