奇跡をおこす「人」のチカラを信じる/カーネーション(140〜145)


今週の副題通りの、
なんという大技、離れ業を見せつけてくれたことかと
振り返って思う。

生老病死」、生まれて死ぬまでの間には「病い」と「老い」という
人として避けられぬ「苦」がある、ということを、
しっかり見据えてその肝心を描き出した、渡辺あや脚本の驚くべき洞察。

しかもその「苦」であるはずの「病い」と「老い」を、
鮮やかに「奇跡」に反転してみせた、
大胆な意識変革によって、「奇跡」は可能だと見せつけたのが、
何よりすごい。しびれる。陶然となる。

根本は「現象」ではない、「人」なのだと、人の気持ちなのだと、
はっきり言い放ってしまった。なんだこの格好良さは。

奇跡は「おきる」んじゃなく、「おこす」ものであると、
この「私」という個人が、おこすと決めたら、それは可能なのだと。

人のチカラ。その計り知れないパワーの開花に、激しく胸が震えた。
個人の潜在能力に奇跡は宿る、宿っているのだ最初から。
たぶん、きっとそうであるに違いない。
いまだ眠っているキセキが、誰の中にもある。自分では気づかないだけで。


以下、またも思いつくままに箇条書き。


◇奈津のいた病室のベッドが、ある日突然に(気配を消すように)片付いている光景を、
咄嗟に「死」に結びつけ、激しく動転する糸子。
実際は退院したとのオチがつくのだが、若いうちは中々気づけない、年齢を重ねた者特有の感覚が、
巧みに表現されていた。

◇里香たんと学ランの君とのその後(15年後だっけか)エピ。
互いに今では家族持ち、でも友達以上恋人未満の感情は続いている、
これも渡辺あや脚本で見かける王道な(ある種の「理想」なのかもしれない)
男女モデルのひとつ。

◇医学の他にもしかしたら(患者を治癒する方法が)何かあるのかも、と総婦長。
(自ら選んだ道の正しさを)信じてる、でもやればやるほど「たかが知れてる」と、
(自らと自ら選んだ道の限界を)突きつけられる、
医療にも服作りにもそこは共通するかもしれない、
「でもご縁をもろたんや・・・おおきに」、噛み締めるように呟く糸子。

◇「年取るっちゅうことは、奇跡を見せる資格がつく、っちゅうことなんや。
末期癌患者が笑うだけで、どれだけの人を勇気づけられるか、元気づけられるか、
資格、いやもうこれは役目やな。」

役目。言い換えれば使命、となるか。
人がこの世に生まれてきたことを、そのように捉える、考える。
こじつけだのごまかしだの、したりげに枠を定めて思考停止するより
遥かに有意義で魅力ある発想だ。

自分に生きる意味、意義がある、そう思えること、信じられること、
それがどれだけその人に力を与えうるか、またその人から周囲へと
それこそ勇気を、元気を、伝搬しうるか、
この発想の大胆な転換にこそ、
「人のもてるチカラを十全に活かす」知恵が、叡智が、
隠されていると強く感じる。


◇思わぬ奈津との再会に胸踊らせる(努めてそっけない素振りを装うも、
根が単純ゆえ、その心の内はおそらく誰の目にも明らかな)糸子。

彼女が一人暮らしと聞けば、孤独死を連想して勝手に心配し、
久々の出会いの瞬間を何度も脳裏に思い描いては、奈津は自分の週刊誌掲載の記事を
読んでいた最中だったのでは、などと妄想をたくましくさせる。
(糸子のこの妄想力は、勝の浮気エピの時を思い出させずにおかない)

腐れ縁の相手に対する素っ気ない素振りでは引けを取らない奈津による
「あんた、変わらんな」の呆れた言葉の調子に反して、
去りゆく糸子の背中を見つめる視線が、ことのほか柔らかで優しかったのが印象的。

◇世間に名の知れた方だけにメンツもおありでしょうが、とは
服飾のプロの完璧主義を、畑違いの医療現場に持ち込まれても困ると
糸子の提案(モデル希望者のうち重病患者を優先に選びたい)を、とんでもないことと
却下した時に、総婦長が言い放った反感だったが、
その認識が誤りであるのを、直後の糸子の言葉から、彼女はすぐに気づいただろう。

糸子は、洋服が人に元気をもたらすチカラを信じている、つまり
主役は糸子本人ではない、彼女はあくまで黒子のつもりでいるわけで、
主役はあくまで糸子の服を着ることで、いっそう輝く「他の誰か」なのである。
ゆえに糸子個人のメンツ、などというちゃちなスケールの提案ではなかった。
糸子はいつも自分より相手のこと、誰かのことを気にかける「与える」人だから。

◇病院の廊下をただ歩くだけのことに、意地を張りあい、先を争う糸子と奈津、
熟女ウケする(らしい)先生が通りかかると、奈津が急に愛想良くなる、など
二人の女学校時代を彷彿とさせるシーンが楽しい。

結婚で変わったかとおもいきや、ちっとも変わってなかった(三つ子の魂百まで、な)
奈津の男の好みを揶揄する糸子に、苦笑いと共に同意。
確かに「女の扱いに長けた無責任男」は、春太郎(=冬蔵)に通じる「原点」かもしれない。
「憧れの」泰造兄ちゃんとはろくに話も出来なかったわけだし、性格面では
あの歌舞伎役者が原点であっても、合点が行く話ではある。ああ奈津や奈津。

◇本人の意向を無視してまで、過保護な守り(の医療)を徹底するのは、一体誰のためか、
果たしてそれが患者の幸せに繋がるのか、
現場のリアルな煩悶を、思わず糸子に吐露した総婦長の思いとは無関係に、
組織として責任回避に向かいやすい側面をも、遠まわしに露呈させる脚本の妙。
「その行為(たとえば医療)は、一体誰のためか」という、物事の核心をつく問題提起でもある。

◇「やる」となったら手抜きはしません。昨日のアサイチからの連想で、
この糸子の言葉が、演じる夏木マリに重なって聞こえた件。

◇相手から「奪う」のではなく、相手に「与える」、またその自らの行為によって
何か大切なものを相手から「もらう」、それが糸子という人を形成する核心。

◇サンローラン引退の報に、彼という服飾の「戦友」にして「同志」へ、一人ひっそりと
別れの盃を酌み交わす、ささやかな儀式をする(もう一つお猪口を用意して)糸子の心情、
変わらぬ凛とした心意気の格好良さに打たれる。



※この感想を書き終えた後、本日更新なのを思い出し、公式サイトを覗いたら、
渡辺あやインタビュー後編にて、なんと(本当に思いもよらず)生老病死の文字があり、
偶然とはいえ、ちょっと感動。
また「動物が一生懸命身繕いするように、人間も格好つけなきゃいけない、
それが相手に対する思いやりであり、礼儀でもあると思うから」のくだりも良かった。

「行き着くのは、死生観という難しい話。死んだこの人は、今とても幸せです、と
フィクションなら断言できる、本当のハッピーエンドを描きたいと思った」
「人は”自分だけの何か”を大事にしてはいけない、人と共有することの大切さを、
実話を元とするこの脚本に取り組む過程で学んだ、」等々、
期待を裏切らない、さもありなんと深く共感を寄せる言葉たちがずらりと並ぶ、
やはり最初に見込んだ通り、これで傑作にならないはずがない、なんたる嬉しさ、
感謝と満足で胸一杯。

そして田中健二演出チーフへのインタビューまで。
おお、ラスト一週前だけに盛り沢山だ。
脚本ベタ褒めですな、わかるわかる、右に同じく、異論なし。
余韻や、気持ちの余白みたいなものを大事にする演出を心がけた、と。
はいはい、十分伝わってますよ、毎回のハイレベル、大いに堪能させていただいた。

「人は自分ひとりで生きているんじゃないんだ、ということを、いま改めて感じている」
「(先祖から続く、また世代から世代とリレーされる)人間の積み重ねによって、
人は生きているんだ、ということ」

過去からの繋がり、未来への繋がり、ささやかな個人が繋ぐ、壮大な人の歴史に
思いを馳せていると、じんわり、しみじみ、胸にくるものがある。
なんだかしらんが、感謝の気持ちが湧いてくる。

生まれても死んでも。
病いでも老いても。

ただ有り難い(在り難い)この生命というキセキに、
ただありがとう、しかないんじゃないか、
こんなちっぽけな自分に言えることなんて。






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