生きていようと死んでいようと/カーネーション(150)


最終週『あなたの愛は生きています』

昨日放映分を見た時から、
糸子が危篤状態から一夜明けた早朝の、薄いピンクのカーテンの間から射しこむ朝の光が、
やたら神々しいくらいに綺麗だと思っていた。

そして本日、片頬引き上げるようにして、全てを了解し受容した人の穏やかな微笑みを浮かべる
糸子の満ち足りた表情に、たまらなくなった。

有限で、はかなく、もろく、けれど、だからこそ、目の覚めるほど美しく輝く、生命の輝き。
確かに「恋をした時とよう似てる」、
世界をまるごと愛して、抱きしめて、肯定したくなる、あの浮き立つような
全てに感謝したくなるような気持ちに。
(これは朝の放映後にさほど時をおかず、半ば衝動的にtweetした内容に近いが)

九死に一生を得た人の、死の淵まで行き戻ってきた人の、死というものへの厳粛な心構えと
限りある生命(生)がいかに奇跡であるかを、実感してこその境地なのかと思う。

「おおきになァ」、しみじみとねぎらう言い様に、直感的に落ち着かないものを感じ、
どこか不安げに見つめる孫の里香の、柔らかい頬に手を添えて、「あんたキレイやなァ」

里香の躍動する生命のチカラを、遠い日の自分と重ね懐かしむように、

命そのものの輝きに恍惚とひれ伏し、称えるように、

慈愛に満ちた眼差しを注ぐ夏木糸子の、最後の生命の火のありたけをそこに込めたような
切なくも愛しげな表情に打たれた。


世の中がなんでもかんでもキレイに見える、そう胸中呟いて、ほろり一筋の涙が
糸子の頬を伝い落ちた瞬間から、身体中が痺れるほどの軋むほどの情動が、
突如突き上げてきて、
放送終了後も、しばらくは強烈な余韻に押し流されるまま、魂でも抜かれたような
間抜け面さらし、心ここにあらずな調子でぼんやりしていた。

生命という概念も、時間という概念も、よく分からないし理解も及ばない、
ただひとつの決まったカタチ、定型じゃないらしいのは分かる、
感覚で主観で、大胆に様変わりするから、
そのカタチは、他の誰でもない「私が決める」のだということ。

まさかの周防の娘との邂逅により、「あの人」との見えない愛情の絆が
別離以降もずっと途切れていなかったことが、一気に「確かな実感」となって浮上したように、

愛する者が、生きている、とか、死んでいる、とか、関係ない、

さらに言えば、リアル(現実の出来事)だの、
フィクション(架空のTVドラマの中のお話し)だのも、関係ない、

愛を注ぐ対象は、かけがえのない宝は、
いつも傍にあるんだと、一緒に居るんだと、「決めたもん勝ち」なんだということ。

そんなことを、取り留めなく考えたりした。


糸子の大切な大切な「抱えきれないたくさんの宝たち」が、
部屋の一角(遺影を前にお菓子を供えたりする、祭壇まがいのいつもの場所)に
まとめて飾ってあったのに、またしみじみと涙。







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