戦後パワーに学ぶこと/梅ちゃん先生(21)ヒポクラテスの乙女たち

本日放映分の内容に、いつもに増して(今朝の放映直後に見た限りでは)
twitter上には否定的評価が集中していたようだが、
それに対し、半分納得、半分残念というのが、偽らざる本音ではあった。

半分納得というのは、現代の価値基準からは逸脱した(かのように感じられる)主人公の
無鉄砲かつ強引な行動が、予想外の展開を呼び、結果的に丸く収まる流れを、
辻褄や整合性を主軸に置きがちな我々は、唾棄すべきご都合主義と見下しがちだが、
経済を筆頭に低迷続きの暗く厳しい時代を生きる者の感覚としては、それも無理なきことだろう、
という理解を一応踏まえてのこと。

汚れちまった悲しみ、よりさらに悲惨な、こんなもんだろとの諦め、が蔓延する世の中に生きる者にとって、
本作に相容れない違和感なり拒否感を抱くのは、ある意味で当然の反発かもしれないとの思いもある。

たとえ最初は馬に牽引させたにせよ、不意のアクシデントで頼みの馬力が使えなくなり、
仕方なく医薬品を搭載した荷車を、女五人で横須賀から東京まで引いて(&押して)帰ろうとする無謀は、
その行為だけをフラットに眺めれば、どうしようもなく世間知らずな箱入り娘の失態、としか映らないし、
梅子以外の劇中人物にしろ、内心では「無謀すぎる」と思っているらしいのだが、
途中で投げ出すわけにもいかず、行き掛かり上渋々と、いった格好だった。

そのうち泣きっ面に蜂で不意の雨に見舞われ、たまらず梅子を除く四人が先を争い、
道端の雨宿りが出来る場所に逃げ込むのだが、何故か梅子だけが濡れるのも構わず、
頑ななまでに荷車を引こうとするのを止めない。
この状況のみを取り出して判断するなら、
しばらく雨宿りしてみて、これからどうするか改めて策を話し合えばいいものを、
これ見よがしに意固地に荷車を引くのは、矛盾に満ちた愚かしい行為、となるだろう。

理屈ではそれで正解かもしれない。だが理屈では図れない人の感情では、
梅子のあの無謀こそ正解だった、そういう別視点からの見方も否定できないように思うのだ。

梅子は頭で考える以前に、感覚主導で「荷車を引き続ける」と判断した印象を受けた。
あの時の、皆のヤル気が急速に萎んでいく最中に於いては、
「何があっても絶対に立ち止まってはいけない」との「直感」に導かれた、
意固地とも取れる「無茶」だったように見えた。

一度でも立ち止まったら(冷静に状況把握して「覚めて」しまったら)二度とこんな
馬鹿げた事はやれない、再びの(荷車を引く)ヤル気が失われる、とこれはもう
身体感覚にも近い、今止まったら終わり、という切迫感だったのではないかと思うのだ。

この身体感覚が理屈より優先する感じこそ、本作の描く戦後以降の、高度経済成長へと
上昇気流を駆け上がる時代感覚なのではないか。
ともすると理屈優先になりがちな我々の感覚とは、大袈裟に言えば真逆な、ある意味
暴力的なまでに野蛮な、少々踏まれても容易く折れない雑草のような逞しさと
予想を裏切る意外な行動力と。
楚々とした可憐な野辺の花みたいな見た目の梅ちゃんだが、中身は立派に
この時代を生きていた人なんだなと改めて感じた回でもあった。

安全圏で屁理屈こねるのは容易いが、後ろ指さされる失敗のリスク背負って行動するのは
簡単じゃない、だが後者のほうが充実度は高く、なによりオモシロイ、そういう捉え方もある
(たぶん本作の描く時代には確実に「あった」だろう)。

本作で描かれる終戦後の逞しき人たちに、現代の我々が学ぶことは結構あるんじゃなかろうか。
きっとものの考え方や価値観の違いに、そのつど驚き戸惑いつつも、謙虚に学ぶうち
何となく見えてくるものや新たな気づきや発見が、色々とありそうな気がする。

という期待を踏まえてのもどかしさに似た思いが、冒頭での「半分残念」という感想には繋がっている。








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