個人の「主観」は万人に通じる「事実」に非ず


梅ちゃん先生の感想を書きそびれてしまった。
気が重いのも正直あった。

本作の感想に関しては、とにかく斜に構えた(傍から見るとかなり「痛い」んだが、みんなで渡れば方式が
身についてる日本人は、なにより「数」の安心感と言わずもがなの目配せの共謀意識が大好きゆえ、
なし崩し的に雰囲気に流されて気が緩んでしまうんだろう)厨二病ポーズで小馬鹿にし、
いかにもな余裕を気取って、大勢の側から強気で貶しまくる(安全地帯から存分に攻撃できる
=ストレス解消に使える)というのがネット上のルールらしいから

そのお約束に反する好意的見解を示そうものなら、たちまち仮想敵に仕立て上げられる、
今は下火になったのかもしれんが(動向に興味ないので知らない)、勢いづいた集団ヒスはつくづく
始末におえないバケモノだと思った。感情のままに暴走することの恐ろしさを痛感させられた。
朝ドラの感想ごときと軽んじるなかれ。一時は万事に通じるのだ。場の空気に流されやすい日本人に
一旦危ない方向へスイッチ入ったらどうなるか、ちょっと今はまだ想像したくない感じ。

そういえばtwitterで執拗に「こんな駄作でも楽しめる小学生程度の知能が羨ましい」だの
あからさまな嫌がらせを得意げに書く輩もいたんだったが、

キーワード(いやその上をいく、わざわざハッシュタグをつけてまでして暴言を吐き散らす輩も結構いたと記憶する)で
検索すれば、読みたくなくとも強制的に目に入ってくる公共の場で、嫌な思いをするだろう他者の気持ちも考えず、
好き放題勝手放題を繰り返し繰り返し、飽きずに書き散らかせる「個人の権利や自由」を履き違えた者のうそぶく
「小学生程度の知能」とは誰のことかと、度を越した暴言に呆れつつもなお自制したのは、
それで場の空気を悪くして、他の多くの罪のない不特定多数に迷惑を掛けるほうが、より拙いと判断したから。
その後も似たような嫌味は枚挙に暇なく繰り返されていたが、今はどうなんだろう。

で。そういった理不尽な人格攻撃が、今まで当然のように野放しにされてきた弊害なのかもしれないが、

執拗を極める悪意が自らに向かうのを今も恐れてか、
「アンチの指摘は尤もだが」などとあらかじめ保険を掛けた上で、そこまで悪くない、などと
これまた装う公平のうちに内心の傲慢ちらつかせた、上から目線でもったいぶった肯定などする
自分可愛さのエゴから日和見に走るようなのを、いくつか見かけたことがある。
だがこういうのは見た目の謙虚さに人が騙されやすい分、一番たちが悪いのではという気もする。

「ご指摘はごもっとも」などと声のでかさ=正しさの勘違いを増長させるだけさせて、
その自らのええカッコしいのツケを他人に平気で払わせてるわけだから。

最後まで投げた波紋の責任取る気がないなら、結局は褒め殺しで作品を足蹴にしてまで自分を守りたいなら、
最初から黙るか批判するかのどちらかに態度を決めてくれたほうが遥かに誠実だと思う私は、
上っ面だけ公平ぶった偽善にはげんなりさせられることが多い。

twitterは言いっぱなしで流れていく分、反射的に思いつく感情をダダ漏れさせた放言になりがちな面があるし、
他のSNS等の匿名投稿も似たり寄ったりな印象で、自らの発した言葉に対し、体を張って責任取ってもいいくらいの
覚悟に欠ける無責任だからこそ、実態のない印象操作に加担する形で、ある方向への現象、流れを
形成しやすいのかとも思う。

突き詰めれば細かな批判のほとんどは「〜であるに違いないのに〜でないからおかしい」という主観や、
よく筋や台詞が飲み込めてない理解の至らなさを棚上げにする勘違いに立脚した、お粗末な論理展開ばかりと
いって差し支えないように思われる。
おそらくほとんどの屁理屈は反論可能なはずだが、面倒くさいので相手にされないのを
「反論できない」からだといいように解釈して、だから難癖程度の批判を正しいと結論づけているのかもしれない。
幸せなことではある。

おのれの主観や勘違いに基づく「正しさ」に反するから誰にとっても「正しくない」と言い切る、理屈にもならない
めちゃくちゃな「筋の通らなさ」にこそ気づくべきなんだが、逆に気づけるくらいなら
この手の暴論には最初から走らないともいえる。

以前に述べた「重箱の隅つつく正しまくり厨」の、その正しさはアンチの立場からの限定枠内に過ぎず、
実際は事実とは異なる主観でしかないのだから、万人に適用される「正解」とはとうていなりえない。
たかが私見を拡大解釈するから、少数派=正解ではない(間違い)と決めつけ、おかしな粘着や敵愾心も生じる。
すべては了見の狭さがもたらす「正しさ」の思い違いに原因がある。

劇中の松岡ではないが、「事実と違うことを事実であるかのように恣意的に噂を広めること」への憤慨は
「事実と違うことを事実であるかのように恣意的にSNS等の公共の場で吹聴すること」への憤慨と同質である。

それが紛れも無い事実であるならなんら問題はないが、批判に名を借りた屁理屈をさも動かしがたい事実のように
強弁するのは、それこそ間違いだ(個人の権利や自由の意味を逸脱している、履き違えている)と断言する。

※追記
厳密には、一般に浸透する常識や習慣などに基づく「事実」と、そのキャラクター個人の人物設定に基づく「事実」の二段階があるが、厄介なのは前者と後者とが食い違う事例で、批判の多くは前者のみを正解と考え、後者の可能性を考慮しないことに起因するように見受けられる。つまりは根拠の求め方からすでに偏向偏見の類が入ってしまっている、ということ。

さらに時代考証への批判について。最近見かけた例に「当時はデートなる言い方は使われていなかった、ないし一般的でなかった(ので台詞にあるのはおかしい)」というのがあったが、大衆向けエンタメ作品において尤も重視される、作り手として押さえておくべきポイントが「分かりやすさ/親しみやすさ」である点さえ理解できるなら、現代に即した表現に「翻訳」する工夫を、間違いと得意げに指摘することの愚かしさも容易く理解できるはずである。つまりは「なんのためにそうしているのか」を先読みして考えられない程度の脳ミソによる、低級な揚げ足取りでしかないということ。


事実に基づかない主観を拡大解釈した挙句に、冤罪を成立させてしまう罪深さにも通じる無責任も問題だが、

内心では同意しかねながら上辺だけ取り繕い、ただ自らに振りかかる火の粉を避けたいがための、
言わずともいい無用かつ余計なご機嫌取りするのも、同じく無責任である。

言いっぱなしは確かに楽だろうが、何のリスクを負わずに何事かを言った気になるのは、いわば実質の伴わない
自己満足に過ぎず、最後まで責任を取る気のない信のおけない発言は、有害な噂のたぐいとなんら変わらない。

自らの発言の責任は必ず引き受ける。間違いが判明したら率直に謝る。それだけのことを誰もが守ったら
つまらない流言飛語に今ほど多くの人が簡単に左右されずに済むかもしれない。まあ楽観にすぎるかもだが。

それからこれは余談として、作品を分析したり批判すること自体を悪だとし、肯定しか許さないのもまた
身の毛のよだつ上っ面の偽善だと思っている。口先だけの空虚なキレイゴトを並べる保身第一の計算高さに
つきあわねばならない義理はどこにもなく、ネガティブに属するものを糞味噌一緒に封印したがる
たすき掛けの教育委員会にも用はない。ポジティブならなんでも正しいとする暴論を見過ごしていいわけがない。
ネガもポジも。極端に振り切れる危うさではどっちもどっち、幼稚である点に変わりないと思う。





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