仮面ライダーフォーゼ(40)/理・念・情・念


長谷川圭一脚本に感じる常として、前編の問題提起にはそれなりに興味を惹かれても、
後編の回収の仕方に期待値に届かない物足りなさへの不満が残る、というのがある。

そもそもなぜ生徒会が、雇われ警備員よろしく夜の校舎の見回りまでやって
生徒の風紀を取り締まらねばならんのか、その越権行為に対する視聴者の素朴な疑問に
何の補足説明もないのがツライ。
生徒会のあり方に天高ならではの意味づけがあるなら、せめて台詞等で仄めかすくらいは
やってくれてもいい。

たとえば弦ちゃんが生徒会長の子から、副会長の子が変貌した経緯を聞き出している最中に
「えっ夜の見回りまでするのか生徒会は」と驚くのに、その子がいくぶん得意げに
「生徒の自主性を最大限尊重したいとする我望理事長の教育方針で、風紀については私たち生徒会に
一任されてるの」などと返し、
それへ弦ちゃんが何か引っかかる表情を残しながらも曖昧に「・・・ふーん」と頷くとか。

当たり前のように描かれてるが、生徒会が夜の学校管理にまで首突っ込むって
どう考えても異様な状況だろう。

それ以前に、まず天ノ川学園高校がいかに特殊であるか(いかに歪な管理下に置かれているか)の
アピールが絶対的に足りてないのが根本問題にあるわけだが。
その点についてはメインの中島脚本と塚田Pの構成能力を問うほかあるまい。

そういやいつの間にか立ち消えとなったようだが、初期の頃のアメリカーン!なスクールカースト設定、
ジョックだのサイドキックスだのギークだのバッドボーイだの、あの手の聴くだに気恥ずかしいたわ言は
無かったことにしてくれ、ということなのか。

放映当初に本作に抱いていたのは、そういったちまちました階層やら派閥やらの対立を、毎回弦太朗が
ハブとなって両者を繋いでいき、やがて我望から分不相応に学園支配を許された手強い生徒会との
直接対決→和解→仲間になる、のお約束イベントを経た後に、いよいよ本丸たる陰の支配者、我望と
その配下の教師たちへ行き着く弦ちゃんと仲間たち(弦ちゃんを媒介に一致団結した生徒会だの各派閥や
階層を含めた全校生徒たち)、のような期待だったが、

見事に裏切られたというか、何の積み重ねもない単発エピ連発でここまで来てしまっては、
特殊性を出せば出すほど、その説得力欠如からくる突飛さに違和感が募るだけのような気がする。

話は横道にそれたが長谷川エピへの疑問はまだある。

夜の校舎の屋上で花火やバーベキューに興じるのは、確かにハメの外しすぎと注意されて致し方なしではあろうが、
かといってその子らを憎々しげに不良呼ばわりしたり、
彼らの一人が面白がって投げた花火が足元に転がったのに驚いて後退り、自ら階段落ちで怪我したのを、
「不良によって怪我させられた」だの「あの事件」だの、私怨によって歪んだ尾ひれをつけて騒ぎ立てる生徒会、
あのポニテの子や会長(女)や副会長(男)の偏見の方が、よほど始末に悪いんじゃないかと思ってしまう。

他の生徒にとってはまったくどうでもいい上記三人の恋の三角関係から
生徒会による恐怖支配のとばっちりに発展とか、全校生徒の被った理不尽にも程がある被害を思えば、
校庭とかに集まった皆を前にして、土下座して詫びたっていいくらいだ。

生徒会長は騒動の元となった責任を痛感して自主的に役職を降りるくらいの
ケジメつけてくれよと思わんでもない。
「怪我が治ったら会長復帰」はいくらなんでも図々しくないかと。
揺るぎない正義の心で、私の理想を引き継ぎ実践してくれている、は冗談抜きに怖すぎ。
これ以上公私混同した生徒会運営を許すまじ!と立ち上がれよ天高の生徒諸君も。

呆れることに(本作では「ありがちなこと」だが)副会長(の男子)がゾディアーツ化した
そもそもの発端たる怪我で入院中の生徒会長(の女子)の、はた迷惑な被害妄想を誰も注意も指摘も
しないんだな最後まで。
生徒会長らから悪し様に「不良」とレッテル貼られた子たちは、さんざん劇中で怪我させたのなんの
いちゃもんのつけられ放題だったのに。この扱いの差には釈然としないな。


もう一つ。弦ちゃんが副会長の子に言い放った
「お前のいう正義が本物なら、わざとであれ違反行為をしてみせた彼女(彼の想い人たる生徒会長)を
問答無用で処刑できるはずだ!」に、
副会長の子が屈して「僕にはできない!」と敗北を認める場面における、
長谷川脚本の本意が以下のどちらにあるのか考えてしまい。

この会長&副会長による、全校生徒を抑圧支配下に置くためのすり替え理論として
「自らの情念(「不良」たちへの私怨)を万人のための理念(正義)と言い換えた」としたいのか、
それとも
「理念(正義)を形成する根っこには必ず情念による動機付けがある、情念なくして理念なし」としたいのか、

どちらだろう。もしもどちらをも含む計算の上でぶつけてきたなら、いやそこまで考えてなくとも
結果的に、本作にとって諸刃の剣となりうる危うさを秘めた理屈を展開するものだなと思って。
理念と情念とは相反する関係でなく密接に関係しあっている、絡み合っている、と強調してしまって、
その矛先がどこに向かうか。

それはもう百パーな確実さで、主人公たる弦太朗の、正義のもとにゾディアーツと戦う仮面ライダーな活動、
すなわち理念と、個人の内面すなわち情念、の関係性に向かう、向かわないはずがない。ないんだが。

弦太朗の内面なんて今まで書かれた試しがない、視聴者の立場からすると彼が何故にフォーゼとして
戦っているのか、まともに考える取っ掛かりが与えられてないから、そこは予め考えちゃいけないんだと
封じられているから、どこか不自然かつ不自由な違和感を抱きながらも、無理やりそんなものなのかと
自分を納得させるしかない、本音では納得なんて出来やしなくとも。

おかしいよな変だよなご都合だよな、まあでもお子様向けならこの程度でもいいのか的な迷いの中で、
いまさら考えてもしょうがないかと、あえて放置してきた、触れないできた、違和感に蓋をしてきた、ずっと。

何の内面的根拠も動機づけもなく、最初から戦うことを当然とされるというのは、確かに巻き込まれ型の
ライダー変身者(平成とかの)はさかのぼって歴代にもいたが、そんな彼らも必ず回を追っていく途上で、
なぜ自分は戦うのか戦わねばならんのかの自問自答の時期は訪れていたように思う。
そこから迷いを振りきってまた一歩成長する展開なら、いくらでもあった気がする。

だが弦太朗はハリボテに近い内面を持たないヒーローだから、何のために戦うのかとかなぜ俺は戦ってんだとか
考えたりしないし悩まないことになっている。
戦う動機も根拠も持たない、ようするに最初から情念を否定されたヒーロー、という記号を表すキャラでしかない。

という本作の暗黙の了解の上に成立する安定を、「理念の裏に情念あり」と皮肉なのか無意識なのかやってしまう、
これは何という自己破壊衝動ですかとすっとぼけて訊いてみたくなる、まさか終盤に差し掛かる今頃になって
弦太朗の内面描写を後付けで突っ込む前フリなんぞではなかろうが、本作にとって理念(正義)を
情念と絡ませるのは、弦太朗というヒーローの全否定に繋がりかねない危ない橋なのは間違いない。
なんでこんな爆弾仕掛けたんだろうと不思議でならない。
何も考えてない、だったら盛大にズッコケること必定だなこれ。

でもかつてライダーの戦う動機には、敵組織に肉親を殺された怒りだの、改造人間化された哀しみだのといった
激しく渦巻く情念が原動力となっていたんだった。そうして二度とこの自分のような辛い思いを
この世に繰り返させない、との断固たる決意で、悪との戦いに身を投じていたんだった。

ライダーで情念に言及してしまうと、当時とは隔絶の感ある「情念皆無な」ヒーロー設定をあらためて
「なんなんだろうかこれは」とばかりまじまじと眺めてしまうような、奇妙な心地に襲われる。
だから長谷川脚本は何狙いでこんな内容を、と問いたくなるのだ。
問いたくなってまた堂々巡りのエンドレスに捕まりそうになる。
情念は理念(正義)の原動力と言いたいのなら、いやこれ以上は控えておこう。何にしろ今さらだ。









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