特撮ヒーロー関連つぶやきまとめ(2011/6)part3


引き続き。
過去tweetより特撮hero関連のみ抜粋、の六月分その3。


2011年06月17日(金)

思い出した、「スーパー戦隊199ヒーロー大決戦」のパンフに横山一敏SAの名がなくて淋しかったのを。メガレッドやレッドレーサーの、あのひときわデカい図体がチャーミングに見える不思議は、明朗快活&天真爛漫なお茶目さん演技の賜物だろう。スクリーンでも観たかったなあ。

書き直し。「(仮面は)異界のものを自分たちのところにスイッチングさせるための装置」(荒俣宏)。 イケ面(=イケてる仮面)とは云い得て妙。仮面、はエロス発生装置の一種でもあるから。 http://bit.ly/××××

ゴーオンジャーGP−12。走輔とハツデンバンキが入れ替わる設定による、福沢博文レッドのゴリラそっくりの怪しい動きが見逃せない!ああいう目一杯振り切れた場面における福沢レッドはピカイチだといつも感心する。照れを100%振り捨てたあの豪胆さ格好良さに痺れないでどうする。じーん。



2011年06月18日(土)

ダイレンジャー21&22話。リュウレンを指差してシャダム曰く「貴様の体はゴーマ三幹部が頂いた!」。またキバレンに襲いかかろうとするザイドスを牽制攻撃して、阿古丸曰く「手を出したら駄目だよ、わたしのモノなんだから!」。

再見して意外とホモホモ成分多めなのに気づいた。すわ、大藤リュウレンの危機か!(なんでそうなるw)

シャイダー第43話は(前回から引き続きの)山田稔監督回。面白いと思ったのが、一気に「仮面ライダー」的なやや泥臭い雰囲気に様変わりしたことと、変身後のバトルパートの構成が他回に類を見ないオリジナリティを発揮していたこと。

シャイダー。そして話が一挙にフーマによる全銀河の大侵略へと、無謀にスケールがデカくなる(苦笑)第44話は小西道雄監督回。説明的な中間をすっ飛ばすジャンプショット並みの大胆さ、なのに違和感なくスムーズな繋ぎの妙味。前へ前へと駆動する活力漲る映像はミッチーならでは。

いや違うぞ「並み」どころか紛れもなくジャンプショット、それが連続して見えるショット間の繋ぎの絶妙さを、まあなんというか讃えたかったのだな、お粗末。


クウガ」に関しては、グロンギ=邪悪の設定を、具体的に劇中で手順踏んで検証していかなかった点に最大の弱みを抱えた作品だと思ってる。たとえば第5話で「(グロンギは)戦うためだけの生物兵器」と断言する人物は、どう見ても二十代程度の若い、つまりその年齢に見合う経験値しか持たない

一介の医者に過ぎない。たかが一体の死体解剖の結果を種族全体の特徴にまで拡張して結論づける暴挙を、苦もなく鵜呑みにする脳ミソの方が、邪悪「とされる」グロンギよりよほど怖ろしいと思ってしまう。

クウガ。本来リアリティに拘るなら、最低でも自衛隊の出動→(情報取得目的込みの)グロンギ捕獲作戦→人質を担保に交渉を持ちかける、の流れが欲しいが予算の都合もあるだろう。ならせめて話し合いを提案するも相手が激しい拒絶を示す、という段取りを踏んで正式に敵認定、のカタチに

持っていければ良かった。であればこそ人間側の理も通るわけで。

争いを防ぐ努力をすること、そのための手順を(いくら無駄や徒労に思えてもきっちり)踏むこと、はとても大事だと思うのだ、とりわけヒーロー番組に於いては。それをクウガでは紙上の設定を絶対視するあまり、劇中での相互理解のための努力の手順を省略してしまった。

それで人間側に確固たる理念なき「終始受け身なまま突入した」泥試合な印象なのだ。イニシアティブを取る気もない受動的態度はどうしてか、チャンスはいくらでもあっただろうに、と問いたい気持ちは依然としてくすぶったままある。

訂正。とりわけヒーロー番組に於いては→とりわけシリアス展開を基調とするタイプの現代のヒーロー番組に於いては



2011年06月20日(月)

再見した映画「10号誕生!仮面ライダー全員集合」は初っ端からナレが、仮面ライダー1号は(体内に)小型原子炉を持ち、などと言い出すので面食らってしまう。ヘビーにも程がある設定にどう反応していいやら。

潮健児演じる暗闇大使の、チャンピオンベルト並みにデカいバックルに同じくデカデカと刻まれている「BN」の文字は、バダン帝国の略称とは思うが、ちょっとウケる。

スーパー1こと中屋敷哲也SAの繰り出す蹴りや突きの早さ正確さ、さらに寸分の無駄もない動きには、ただ陶然と見とれる他ない。

バトル時に延々流れるライダーソング、といった歴史的財産である特撮heroものの鉄壁のお約束事を継承した映画「スーパー戦隊199」の、堂々と王道を貫いた製作姿勢は、もっと評価されていい。





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