ダークナイト ライジング/バットマンからブルースへ

The Dark Knight Rises


長らくご無沙汰続きの映画だが、ダークナイトライジングだけは公開初日に(もし行けたら特別先行の方に
したかもくらいの勢いで)足を運んでしまう情熱はどこからくるのやら。

前2作はどちらも一度劇場で観た限り。この「一度限り」は僅かな例外を除けば元々の性分ではあるから、
さらにハードル高い予習なんぞまったく考えも及ばず、ぶっつけでふらりと観に行ったんだった。

確かにおぼろげな記憶とはいえ一度は観てるわけだから、劇中に潜ませた目配せはおおよそなら分かる、が
帰宅後(順序は逆転したが)手持ちのディスクでビギンズ、ダークナイト(最初の30分ほどが切れているのに
今更気づくとか、トホホ)と再見してみるに、
この三部作構想の一貫したブレなさ加減には驚きを禁じ得ない。
三作揃ってようやく一本の線上に繋がる思いやメッセージの緻密な積み上げは感動的ですらある。
ちなみに初見時の認識が二三補完されたり覆ったりしたのも収穫ではあった。
(できれば後日その辺りにも言及しておきたい)

ざっくりした感想を言えば、
2つの勢力が反発したり引きあったりして発生する(ように見える)出来事の推移も人の感情も、
双方が鏡のような対称をなす構図を意識的に導入しているのが興味深く。

ハービー・デントの死に便乗して出来た、罪人の人権無視した「臭いものには蓋」方式のデント法を
当たり前のように施行していたゴッサム・シティ
扇動された市民による文革まがいの粛清「処刑か追放か」の二者択一を、法(裁判)を騙って強行する
ベイン一味も、
(ビギンズ公開当時から贔屓だったキリアン・マーフィーことスケアクロウの、調子こいた裁判長気取りが見もの)

親の仇だの復讐だのの感情に振り回された苦い経験をもつブルースと
その泥沼からついに抜け出せなかったあの人も、

バットマンをシンボルとみなすブルースの発想と
ラーズ・アル・グールをシンボルとみなす「影の同盟」の発想も、

双子のようにそっくりな両者が互いをさも怪訝そうに見合っている絵ヅラすら想像してしまえる、
惹き合うも反発するも因果がもたらすのか。

善悪を分ける、白黒をつける、その判断の、また決断の責任と痛みを伴う困難さ。
でもそこから逃げるわけにはいかない。
どんなに難しくとも辛くとも見極める努力をし続けなくてはならない。
でないと知らず知らず(どんな人も例外なく)悪に染まってしまう、堕落してしまう、
それが人の本性だろうから。

進むのを止める。これすなわち後退である。
或いは、
登るのを止める。これすなわち落下である。

一作目にてブルース少年が父から、また成長後にはアルフレッドから諭された言葉、
「人は何故落ちるのか、それは這い上がるためだ」が、本作の核となるテーマであり、かつメッセージなのが
小手先の格好つけポーズでお茶を濁さない、ど真ん中を堂々突いてくるシンプルさで好感。

だいたい(これも三作に共通するんだが)少年に対する温かな視点が目立たぬシーンで息づいているのだ
いつもノーラン版バットマンには。
少年が抱くヒーローへの純な憧れをきちんと受け止め、肯定してくれる大人の男の態度こそ、個人的に
最もぐっとくる部分であり、かつて胸躍らせた(リアルタイム体験に非ず←念のため)フォードやアルドリッチ
ペキンパー辺りの映画をふと振り返らせる高揚感を覚える。

個人的にも拳の勝負といえば即座にフォードを連想するのであって
間違ってもスピルバーグ以後とは隔絶したアナクロニズムを感じる、そしてそれがとても私は好きらしい。


前作(ダークナイト)の終盤、ブルースことバットマンは「人々の信念に報いる何かが必要だ」と
シンボルとしてのヒーローの必要性を強調した。
前作の時点ではゴードン共々「まだその時ではない」と判断し、仮のシンボルとしてデントを祭り上げた。
あれから8年の歳月が経過し、ではようやく方便を解いても市民の自主性に期待できるほどに機が熟した、
ということなのか。

今回は、こんなこと初めてではなかろうか、バットマンがマントを広げ華麗に滑空する姿がほとんど
(いや全くか)見られない。
彼はわざとのように不様を晒して、地上での「拳による戦い」にこだわり続けるのだ最後まで。

これはブルース・ウェインバットマンを卒業する、執着から解き放たれ手放すに至るまでの
(イコール大人の男へと一歩成熟を遂げる)物語であり、同時にバットマンの戦いが前述のように
はらはらと心もとなかったり、ものの見事に完敗を期してしまうマイナス分を、
キャットウーマンやゴードン、若手の(嬉しいオチあり)ブレイク等の脇キャラや、一般市民の皆さん
一人一人が「英雄」となって、必死に「悪」の侵攻を食い止めようとする物語でもある。

おそらくバットマンの弱体化=人間化、はブルース本人が意図的にやっている節もあるのではないか。
心境変化として充分あり得ることだ。
ヒーロー的行為を自分一人で引き受けない、個々の市民の自主性に任せる、彼らを信じること、信頼あればこそ
おのれの弱さをさらけ出せもする。
前作の終盤で結局フェリーの「花火」が上がらず失望を隠せないジョーカーが、さも忌々しげに
「誰も信じられないから全部自分でやるのだ」と吐き捨てたのとは好対照である。

もう一つ特徴的だったのが(三作ともに共通するとはいえ本作が最も徹底した描写となった)ブルースこと
バットマンの、痛みを身をもって引き受ける覚悟、だ。

もしかして「相手の心の痛み」を「自身の肉体の痛み」で受け止めているのではないかと思えるほどに
特別な小細工も弄さず、愚直なまでに真正面から、身一つ拳一つの無防備で相手に対峙する。

さんざん殴る蹴るの暴行に意識朦朧となりながら踏ん張ったり、不意を襲われ腹部にナイフを深々と
突き立てられたり、クールな軽快さより切ないまでの鈍重さを強調し、その身体に詰まった血や肉の
リアルな重みや痛みが、ヒリヒリと焼けつくような切迫した皮膚感覚で、見ているこちらにも伝わってくる。

バットマンがこだわる「拳」には、相手と真摯に向きあう態度が透けて見える。
相手を倒すための効率優先なら、当然にして武器使用すれば済む話であり、
わざわざ痛い思いをする必要はないのだから。
つまりバットマンにとって「痛い思いをする」は必要なのである、外せないのである、
故意に選択しているのである。

それは暴力を行使せざるを得ない立場に身をおく者として、最低限の自身に課したルール、とも受け取れる。
暴力には痛みがつきものであり、痛みを被らない安全な場所(「安全」は数の多さが約束する場合もある
→木は森に紛れれば目立たない)から他者を攻撃する=暴力を振るう卑怯を自分に許せば、その瞬間に
彼の拠り所とする「ゴッサムの街を守る」大義名分は呆気なく崩れ落ちる。

一つ一つの痛みを受け止め、耐え抜き、それでも悪を阻止すべく立ちはだかろうとする勇気、それを
バットマンを筆頭に、脇を固める男たちがしっかり見せてくれたことに満足だ。

前作のスタイリッシュなイメージとは真逆の「ベタ」路線を、今回ノーラン監督は意図的に選んでいるようだ。
前作との決定的違いは、バットマン弱体化=人間化と並び、ヒーローを特別な選ばれた人間のように描かない
強い意志に見るのは穿ち過ぎだろうか。

ブルースが少年の頃のトラウマを露骨に思い出しそうな巨大な井戸=穴蔵の装置を用意するわ、
そこからフレンチ・コネクションばりの肉体再鍛錬により決死の脱出劇を演じて「どん底から不屈の闘志で
這い上がる男」を見せつけるわ、
全く太刀打ちできず完敗した相手に、凝りもせず「何という計画性も作戦も用意しない」ただただ気合頼みで
再勝負を挑み、ついに打ち負かす雄の本能ダダ漏れドリームを堂々やっちまうわ、
ラストには古典も古典のベタベタな献身の見せ場用意するわ、
受け継がれるヒーロー精神の確認シーンでこれまたベタベタに泣かせにかかるわ、

この今までにない男のロマン路線に迷いなく振り切った方向性に、逆にノーランの成熟を感じる。

人々の信念に報いること、
いかなる困難にあろうと、大丈夫だ希望はある、と少年を励ますこと、
ノーランの考えるあるべきヒーローの姿に胸打たれた。

男の子は大人の男の振る舞いや言動に学んで男になる、なのに年齢に見合わぬ未熟な精神年齢に
恥じ入るどころか、「永遠の少年」などと自画自賛する痛い大人がひしめくこの世で、
子どもがまともな男に育つのはキセキに近いことなのかもしれず。

とりあえず本作を薦めたい男子必見!と。






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