NHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)はマイナーチェンジし続けるのか。


朝ドラの存在を知らなかったわけじゃない、全く観たことがないわけでもない、
ただ最初から最後までリアルタイムで通して観たのは前前作の『カーネーション』が初めてだった。

15分×6(日曜を除く毎日)の細切れな変則枠で進行する独特な(=この枠ならではのお約束、
その最たるものの一つがナレーションだろう)ドラマに偶然の出会いながら魅入られて、時々タイミングが合えば
朝ドラ好きの家人に付き合う程度だったそれまでの消極的態度が、日々欠かさず視聴する積極性へと転換したことで、
朝ドラに何となし抱いていた先入観も大きく覆された。

たとえば鉄壁の王道のように思っていた(おそらく昔の『おしん』とかあの辺のイメージが根強いのだろうが)
ヒロインの一生を時系列に沿って描く「女の一代記」風コンセプトは『カーネーション』で一旦区切りがついたか、
前作の『梅ちゃん先生』といい今作の『純と愛』といい、幼少期から段階的にヒロインの成長を追っていくスタイルをとらず、
最初からいきなり成長後を演じる女優が登場してくる。
これでクドカンの次回作も同じ手法を継承するなら、マイナーチェンジとはいえ
新たなこの流れがしばらくは主流になっていくのかとも思う。

純と愛』では、前作で指摘されたナレ起用の賛否(知る限りでは否が多かった印象だが)をなんと第一話から
茶化してみせる大胆な(遊川流の天邪鬼気質がそうさせずには置かない、とも読める)切り口を披露し、
一筋縄ではいかない魂胆を垣間見せてくれて痛快だったんだが、前前作の糸子に通じる「強いヒロイン」像が
再び戻ってきたことのインパクトは、もちろん前作の梅子が真逆のキャラだったからに相違なく、
どんな美味でも同じ味が続くと飽きるようなもので、この強弱のメリハリも申し合わせたわけでもなかろうに、
ちゃんと上手いこと出来てるもんだなと妙な感心の仕方をした。

ヒロインの転ぶ描写が頻発するのは関西独特の感性もあろうが、遊川脚本の世代的な感性も無視できないように思われる。
繰り返し効果でもはやコントに近い昔の典型的ドジっ子描写ではあるが、ただ却って若者の感性には
新鮮に映る可能性はあるかもしれない。

しかし天邪鬼気質といっても、梅ちゃんの尾崎脚本の表層的にはさほど目立たない(素直とすら映るが実は偏屈に通じる)
言いよどむように回りくどい「分かりにくさ」もあれば、
遊川脚本の剥き出しでガンガン攻めてくる(偏屈とすら映るが実は繊細に通じる)裏の顔はまずロマンチスト間違いなしではと
言いたくなる「分かりやすさ」もあるのだなと。
どちらかというと前者の方がより始末に終えない(手に余る、といったら失礼だろうが)感じを受けるのだが
さて実際はどうなのだろう。と書いといてなんだが、大して関心があるわけじゃない。想像の段階で留める楽しさもある。

※梅ちゃん最終話放映後に一応某所で簡単につぶやいたんだったが、今度のスペシャル番組の感想と併せ、
何か思い出したらその時にでも。