希望と未練の違いについて

チェイス〜国税査察官〜』最終回(第6話)にて。
追い詰めた春馬(江口洋介)相手に追い詰められた村雲(ARATA)が
理不尽多き不可抗力な運命に対する根源的疑問をぶつける。

曰く。
あっちとこっちにどんな違いがあるのか。
抱きしめられる子供と
(自分のように親のエゴの犠牲となって)腕を切り落とされる子供に
どんな違いがあるのか。

絶望はしていない。誰も恨んでいない。
ただもう一つの人生を想像してしまう。
あり得たかもしれない人生に希望を持ってしまう。
人を狂わせるのはそういう希望なんだ。


村雲は少年の頃に、檜山という実業家の妾だった母親が仕組んだ狂言誘拐の犠牲となり、
左手を切り落とされた過去を持つ。
村雲は檜山の実子なのだが、檜山の本妻に息子が授かって以降は、母子ともに煙たがられる存在となり、
ついに檜山は身代金を出さず、その結果に逆上した母親自ら、犯人役の男達に息子の腕を切り落とすよう命じた。
村雲が事件の真相に気づいたのは大人になってからだった。

好きなように選べない。思い通りにならない。運命なのか宿命なのか、予め定まっているものなのか、そこに何らかの
理に適う法則性だの意味だの理由だの根拠だのを見出して納得したくとも、答えが見つからない、または最初から「ない」のか。
村雲の問題定義は人が生きる上で半ば必然的に課せられた(誰もが逃れられない)苦悩でもある。

ただそれは「希望」と呼べる代物ではないだろう。
希望とは未来に向かうもので過去に向かえば未練となる。
過去の不幸に異常にこだわり、取り憑かれ、現実には何の役にも立たない愚痴や後悔や郷愁や自己憐憫の堂々巡りを、
脆弱なファンタジーで誤魔化しているだけだ。
「あり得たかもしれない(これまでの)人生」より
「あり得る」かもしれないこれからの人生に目を向けて初めて、希望は希望として語るに値する。

希望を他人と比べてもしょうがない。
希望に相対的価値を求めるから「狂う」のだ、「狂わされる」のではなく。
受動的表現で言い訳しても人生は巻き戻せない。
希望は未来と分かちがたくセットなのだ、過去ではなく。






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