「批判すること」について。※補足あり

昨日のドラマ『ダブルス』を見ていて気づいたことがある。
水戸黄門系の予定調和で構成された娯楽時代劇のテイストを踏襲した作りであること、
またそれは朝ドラ梅ちゃん先生の延長線上にある尾崎将也脚本独自のエンタメに対する一つの回答だということ。

とにかく緻密さの欠片もない(失礼!)ツッコミ必至のユルさが全編にわたり確信犯的にてんこ盛りにされる。
ここでは皆が大好き(らしい)リアリティを大胆にも添え物程度にしか扱わない。

代わりにお約束に則って分かりやすく記号化された「悪行」を正し、コミカルな人情を散りばめ、
カラリと明るく一件落着と相成る、そういう「型」がすでに出来上がっている。
言い回しは変だが、現代版のこじんまり纏めた大衆娯楽時代劇という感覚がピッタリくる。

ユルさが前提の作品を批判するのにリアリティの無さを挙げても無意味だ、と以前梅ちゃん先生の感想で
述べた事はダブルスにも該当する。
そこを踏まえてなお本ドラマでのリアリティの無さが気になる、気に入らない、つまらない、嫌だ、見たくない、等々の
ネガティブ意見はもはや好き嫌いの趣向の問題であって、
作品が自らのルールを反故にする形で内包するダブスタ問題とは分けて考える必要があるだろう。

作品が最初に視聴者に提示するルール(約束事)が最後までブレてない限りにおいて作品自体に罪はない。

一例として。
リアリティ無視でも重視でもどちらでも構わない、作品内で一貫していれば何の問題もない。

※補足:ここで指摘する「リアリティの無さ」とは偶発的な事態の発生(またはその連続)により
主役側の都合のいい方向に話が転ぶお約束展開のことであり、登場人物の心情の機敏に於いてはその限りではない。
それは作品全体のバランスを左右する、つまりは作品のカラー、方向性を決定付けることになる強調したい描写を
どこに置くかという比重の問題である。フィクションならではの省略の手法を用いながら人物の心情を第三者目線の批評的タッチを
交えて見せる四コマ漫画に通じる、ユーモラスかつクールに突き放した風刺の手法も尾崎脚本の大きな魅力の一つだと思う。


前述の梅ちゃん〜を私は当初から「夏休みの絵日記」だの「四コマ漫画」だの好き勝手に述べていたが
その最初に受けた印象は最後まで一貫して変わらなかった。
なのであの作品を毎日のように粘着批判し続けることは即ち、自分の思い通りにならない悔しさから
駄々をこねる子供と同レベルであると身を以て証明するに等しいことだと思っている。

梅ちゃん〜を設定や考証がいい加減だと批判するなら、同じ朝ドラ枠たる純と愛の劇中での金銭感覚にも
言及しなければ、最低限の公平性すら保てないはずだが、前者だけが攻撃対象というその事実が
尤もらしい批判理由の底にある本音(単に梅ちゃん〜が嫌いなだけ)を図らずも露呈させる。
むろん純と愛も批判しろと言いたいのではない。
批判する根拠に一貫性がなければそれは個人の好き嫌いの範疇ということだから、
設定が考証がと言い訳に尤もらしい体裁を作らずとも、単に「嫌い」で済む話だよねという確認をしたいのだ。

個人の好き嫌いによる批判は当然あって然るべしと思うが、ただその「嫌い」というネガ感情だけで
(朝ドラなら半年間も)粘着批判する事と、
書き手自身による作品内ルールを裏切るダブスタを批判する事とは、同じようで全く別物ということだ。

前者は個人的好みが作品に反映されないのに腹を立てている(許せないと憤っている)状態だが、
後者は当初の作品内ルールが書き手による私情混入のエゴで台無しにされたことに作品愛から怒っているのである。
作品、ここでは朝ドラ含むTVドラマ、は脚本家個人の、ひいては制作側だけのものではない、全ての視聴者一人一人のものでもある、
一旦世間に発表されたら「皆のもの」になるのだ。

建前と本音を、例えばカーネーション渡辺あやは愛すべき矛盾を抱える作中人物によって描いてみせたが、
純愛の遊川和彦は自身のそれを作劇にねじ込み、自らのヒロインに裏読み私小説の重荷を強引に背負わせてしまった。
結果どうなったか。
善悪併せ持つ人物を描きながら、裏では人物を選別し悪を体現する者は容赦なく切り捨てる(火野や善行のように)
勧善懲悪を決行する。
劇中人物には逃避と依存を許さず厳しく叱咤激励しながら、自らは父と向き合う描写から逃避し(悪役だった善行の退場)、
母を心置きなく専有できる二人だけの夢の世界に依存する(愛という最後の邪魔者を退場させついに晴海を独占)。

この酷すぎるダブスタを批判することと、前述の個人の好悪感情に基づいて批判することとを
乱暴に一括りにされていいわけがない、これほど根本的にスタンスの違うものを同一に語れるわけがない。

批判にも、作品が嫌いだから全否定しないと気が済まない個人の好悪感情を優先したものから
書き手のエゴにより看過できない欠落や矛盾が作品に植え付けられたことを作品への愛着から憤慨とともに指摘するものまで
立ち位置によって様々だ。

好きでもない作品に揚げ足取りレベルの粘着批判するのは最低だとの気持ちは梅ちゃん〜の時から変わらない。
(梅ちゃん〜での批判のケースは見下し嘲笑からかいの類がほとんどで、それが高じて肯定的見方の視聴者をも作品同様
バカにして優越に浸る、何を根拠にか知らないが、まるで自分の方が上であるとでも言いたげな高飛車な発言が目立ったが、
一方作品愛からの批判は皆無だったと記憶する)
でも好きだからこそ出てくる批判までを良くないことと頭ごなしに否定するのは、波風立てないのが一番というつまらない
事なかれ主義を助長するだけで、真摯に作品を語ることから却って遠ざかる気がする。
皆が過剰に気を回しすぎて、互いにネガ発言をしないよう張り付いた笑顔で監視し合うのはゾッとしない不健全な光景に
思えるのだがどうだろう。