ゴーカイジャー(11)&オーズ(31)感想メモ






海賊戦隊ゴーカイジャー第11話「真剣大騒動」

監督:坂本浩一、脚本:荒川稔久

坂本監督回はアクションをスロー再生で確認したい誘惑に駆られることが多いんだが、シンケンの姫、志葉薫ちゃんか、とジョーの対決シーンで、背中への一太刀を丈瑠がするように素早く背中にまわした剣で防御したように見えたのに、実際はそれ以前にしっかり切りつけられてたのを発見。
ちなみに背中に剣が当たるや(当たりが控えめ過ぎて)直ちに弾かれてるのがちょっと笑える。薫姫の背中は剣より強し!(えー)

今回は顔出し俳優陣のアクション中心に組み立てられていたから、スタント要員も大量投入されていた模様。
SAはそっちのプロだから素でアクション巧いわけだが、顔出しの面々でアクションシーンを組み立てるのは監督の技術とセンスの賜物でもあろうから、腕に自信があるほど遣り甲斐はあるだろうなとは思う。
だが私はあくまでSA、スーツアクターの(誰かの代役スタントでない演技込みの)アクションが観たい方ゆえ、今回のハイライトは当然にして「ついに岡元次郎バリゾーグが動いた!」であり、この一点に最大の歓喜は集中したのであった。

何という身のこなし、剣さばき。番組開始以来、この時をどんなに待っていたことか。
情感に欠けたサイボーグらしい冷やかな動作、普段の動きは静的だが、いざとなれば葛藤ゼロかつ一瞬で殺戮マシーンに化ける落差を有し、主君への絶対服従を匂わせる立ち居振る舞いを常とするバリゾーグの特徴を余すところなく「動きで完璧に表現出来る」のは、おそらく岡元次郎くらいじゃないか、黙してただ立っているだけで不気味さすら漂わせることが出来るのは。
ドサクサに紛れて馬鹿な軽薄を口走りたい気持ちを抑えるのも一苦労だ。らぶ次郎!とか。バリたんサイコー!とか。苦笑

それでもアイムのパンチラ、まあズロース系だったのはアレだが、はナイス演出だったし(もっと積極的にパンチラを取り入れるべきと真顔で主張したい。その意味で「シャイダー」は期待の斜め上をいく優良物件だった。笑。第二のアニーが見たいぜ!、てことでヨロシクだよ現行SHTの監督衆〜)
ジョーを庇って背中に太刀受けたマーべラスの海賊コスチュームがちゃんと横一文字に切り裂かれてたり、露出した肌から赤い血が流れるという普通に怪我をした描写があったりと、これまで戦隊モノでは避けるのが常識と(聞くところによると)されてきたタブーに、少しでも抵抗し変える気概を示しているのも悪くない。
だいたい「バーカ!」の口癖もバトル時の足パスも、お行儀の面では褒められたもんではないんだが、最近はかつての親のように子供が真似ようと五月蠅く注意しないんだろうか、苦情が殺到しないのが謎ではあるが、そういう、緩いっちゃ緩いご時世なのかも。(別に焚きつけてるわけじゃないよ、念のため、笑)
にしてもゴーミンたちもゴーカイメンバーもみな、景気よく吹っ飛ばされては何かと(積まれたドラム缶とか木組みのコンテナとかと)派手に衝突し、地面にもんどりうって転がるアクションを情け容赦なくさせられていたことだ。あれでは打ち身捻挫が続出したことだろう。
皆さんお大事に。そしてお疲れさん!



仮面ライダーオーズ第31話「新グリードと空白と無敵のコンボ」

監督:諸田敏、脚本:小林靖子


前々回だったかの「オーズ」感想でDr真木の過去トラウマ設定を「龍騎」(神埼士郎←シスコン妄想病み大迷惑男)のパターン踏襲ではと書いたら(→参考記事)、今度は映司が「タイムレンジャー」(竜也=タイムレッド)のパターン踏襲だった件。苦笑。
絶対的な力に拠る従属を強いてくる父の手の内から身一つで飛び出し、手探りながらも自立の道を探して奮闘する息子再び、ですな。

まあ真面目に考えてみるに映司の示す自身の生命&身体を他者のソレより小さく見積もる執着の薄さ、我欲の乏しさは、いわゆるサバイバーズ・ギルトによって引き起こされる強迫観念的衝動とも無縁ではなかろうし、彼自身の救いが過去の罪の埋め合わせを意味する(であろう)「不特定な人々の命を危険から守る、守りたいとする」献身的行動に如実に反映されていると見るのはそう難しいことではない。
ゆえにここでしっかり注視しておきたいのは、小林脚本が映司という主人公を通じて何を主張したがっているかであり、突き詰めれば必然的に小林の考えるヒーロー論へと行き着くのは明らかだろう。
善悪の人格を100%自己犠牲による献身(※主にヒーローに課せられる役割として)か、100%自己中のエゴ(※主にヒーローに敵対する悪側の役割として)かの、単純に二分化された図式が未だにまかり通る世間の根強い固定観念の狭間で、何とか新たなヒーローモデルを模索しようとする姿勢には共感するし、それは以前の「カノン」放映時(→当時の感想記事は過去アド参照で)に於ける、既成を脱して新規に挑む作り手の前のめりな意欲を、まずは肯定し支持しようとしたのと同じ心情を呼び起こしもする。
あるいはオーズはカノンの問題提起を引き継いだ頼もしい後継者、と云うことも可能だろう。
個人の中で同じ社会に生きる見知らぬ他者との関係性にどう折り合いをつけるか、献身とエゴとのバランス配分をどこに見出すか、という点に於いて、両作品の目指した着地点に大した違いはないように見える。
そしてその問題提起こそが、ヒーローというものを真摯に掘り下げて考える際に外せない重要ポイントではないかと思うのだ。

鴻上会長が台詞の語尾にさり気なくつけたアドリブっぽい「ニャッ!」は、1000回記念ん時の伊達っちの「ニャー!」に触発されてのことか。
いまスタッフ内で流行ってますーとかだったら笑える。ニャッとな!




※本日の一服曲: Cloe  Gabriera Robin