やなせたかしの「正義」






一昨日のニュースで報じられた、オサマ・ビンラディン(形式上は容疑者との括りを用いながらも)殺害を正義と称し、快哉を叫ぶアメリカ(「同容疑者の死は平和と人間の尊厳を信じるすべての人に歓迎されるだろう」、「正義が実った」、)にほとほと嫌気がさしていたところ、それへ自ずと警鐘の役割を果たす暴走へのブレーキ、または防波堤か鎮静剤のような、やなせたかしの正義についてのメッセージが発信されたことに、正直ホッとする思いだった。

同氏の作詞したアンパンマンマーチが震災直後に再評価で注目を集めた件は記憶に新しいが、とりわけ今回の絶対正義を語った下りには全面的に賛同である。そうなのだ。立場が変わろうが国が違おうが「正しいこと」、つまり絶対の正義は存在するのだし、それはオレ正義で一方的に他者を裁くことでも問答無用で傷つけることでもないのだ。

ところでアメリカはまさにデカレンジャー宜しく本国の「許可」を理由にその場で「容疑者」をデリートしたわけだが、この件を該当作品のファンだのシリーズ構成に携わった作り手たち(具体的にはメイン脚本家とP)はどのように咀嚼し、どのような「屁理屈」を以って自らを納得させたのか、多少の野次馬的興味が無きにしも非ず。面白ければ何でもありと、公正な法の手続きを踏むことなしに容疑者を取り押さえた現場で即座に抹殺させる警察機構(=デカレン)の設定を、無批判で一も二もなく肯定してしまうモラルの欠如は、SHT枠としてどうなのかと以前から相当に疑問に感じていた。誰か胸を張って答えてくれないかなファンでも作り手でもいいから、と毎度思うことを思う。
曖昧に流すのが大人、なんて言い訳は体のいい逃げでしかない。おのれの狡さから目をそむけず甘やかさず、こんな時こそ直視し対峙すべきだろう。とりわけ特撮ヒーローに惹かれる人間なら尚更ではなかろうか、正義と暴力の問題は避けて通れないし、通っては(スルーしては)それこそ「大人として」情けなさすぎる。

しかし以下の見出しに掲げられた(というか記事の書き手が勝手に掲げた)「日本人の」という限定は、やなせの主張(=立場や国の違いに関係なく絶対の正しさはある、つまり日本に限った話ではないということ)と合致していないことに誰も気づかなかったのか。この調子では主旨が本当に理解できてるのか怪しいものだ。この手のマスコミの馬鹿丸出しのお粗末レベルなんとかならんか。


日本人の正義とは困った人にパン差し出すこと

>やなせ:「アンパンマン」を創作する際の僕の強い動機が、「正義とはなにか」ということです。正義とは実は簡単なことなのです。困っている人を助けること。ひもじい思いをしている人に、パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。なにも相手の国にミサイルを撃ち込んだり、国家を転覆させようと大きなことを企てる必要はありません。アメリカにはアメリカの“正義”があり、フセインにはフセインの“正義”がある。アラブにも、イスラエルにもお互いの“正義”がある。つまりこれらの“正義”は立場によって変わる。でも困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。


>やなせ:うん。だから正義って相手を倒すことじゃないんですよ。アンパンマンバイキンマンを殺したりしないでしょ。だってバイキンマンにはバイキンマンなりの正義を持っているかも知れないから。それに正義って、普通の人が行うものなんです。政治家みたいな偉い人や強い人だけが行うものではない。普通の人が目の前で溺れる子どもを見て思わず助けるために河に飛び込んでしまうような行為をいうのです。ただし普通の人なので、助けに行って自分が代わりに溺れ死んでしまうかも知れない。それでも助けざるを得ない。

>つまり、正義を行う人は自分が傷つくことも覚悟しなくてはいけない。今で喩えると、原発事故に防護服を着て立ち向かっている人々がいます。自分たちが被爆する恐れがあるのに、事故をなんとかしなくてはという想いで放射能が満ちた施設に向かっていく。あれをもって、「正義」というのです。怪獣を倒すスーパーヒーローではなく、怪獣との闘いで壊された街を復元しようと立ちあがる普通の人々がヒーローであり、正義なのです。



※先日WOWOWにて神山健治の「東のエデン」のTVシリーズと劇場版2作を視聴して連想したのがこの懐かしの楽曲。
だが私のみならず神山自身も意識した可能性はあるんじゃないか。歌詞聴いてると余計にそう思えてくる。
/ ミスター・アウトサイド  佐野元春