ジェイデッカー26&27/ディープピープル(連続ドラマ脚本家)






長くなりそうだと河岸を変えてみる第二弾、のようなもの。


ジェイデッカーのこと/26&27話

善悪どちらかに統一できないのが人の心の有りよう、正体だとし、その心を継承した超AI搭載のデッカードを基点とするロボットたち、を丸ごと肯定する、がひいては人間丸ごとの肯定、となるのが會川脚本の変わらぬテーマのように感じるのは、つい先日『鋼の錬金術師』のアニメ51話分を完走した影響もあると思う。
(ここで「にんげんーなんてららーらーららららーらー」などと口ずさむも一興)
身体と心と魂と。そんなきっちり分割できるほど簡単な代物かは大いに疑問だが、とにかくジェイデッカーにしろハガレンにしろ、身体は入れ物で魂が中味的な捉え方では共通してる印象をもった。
ハガレンでの母親の体を取り戻したい欲望も、前提に母親としての不動の魂がどこかにあると信じられるからにほかならない。

そういえばゴーカイジャー30話でも生前の身体は取り戻せなくともせめて「シド先輩の魂だけでも守る」とジョーが決意するまでを描いていた。
魂とは具体的に何かわからない、ただ誰かの魂を守ることは、その誰かの人としての尊厳を守ること、なのはわかる。
その人を象徴する(していた)もの、それが魂と呼ばれるもので、でもそれは別の誰かの記憶によって支えられている脆いものでもある。
生前の姿や人となりを覚えている者がいなくなればその人の魂も、では消えるのか、たぶん消えるのだろう。

(全く本編の感想になってないので以下付け足し)

デュークとレジーナの関係描写(17話のマクレーンとせいあに続く恋愛未満な優等生特有の、傍目にもどかしいw関係性がいい味出してるかと)に一番の力点が置かれている以外にも、新庄や次女くるみの見せ場を作り脇キャラに奥行を出したり、反対に勇太の子どもらしい未熟さ幼さを、周りの大人やロボットたちがしっかりサポートし、結果、本人が正しい方向を自力で見つけ一歩成長するという流れなど、それまでにない新鮮な切り口が色々と印象的な回だったと思う。
がしかし會川脚本にも不満はあって、デッカードを(今回は欠番だったが)考えなしの軽はずみな若者同然に描くたび「わかっちゃねーな」と心中首をふるのが常ではあったのだ。
ふふん、うちのパト吉に対する洞察がどうにも浅いようですぜ、ねえ旦那(となりきりシャドウ丸)。 




ディープピープルのこと/ #019 連続ドラマ脚本家


ちゅらさん』の岡田恵和、『やまとなでしこ』の中園ミホ、『結婚できない男』の尾崎将也(というのが個人的印象、しかしほんとにあの役の阿部ちゃんを彷彿とさせる尾崎氏の実際の「人となり」が一々ツボにくるくる)の脚本執筆をめぐる鼎談。
尾崎氏のキャラが興味深すぎて、来年の朝ドラ『梅ちゃん先生』が今から楽しみだ。堀北真希主演も美味しい。
堀北真希ちゃんというと、なぜかいつも灰色のふかふかした毛をした外国産の猫をイメージする、目の感じとか猫っぽくないかなんか)

岡田恵和脚本の書く「清らかすぎる女性像」には時にぷっと吹いてしまう、と躊躇いもなく本音を投げる中園ミホ
すかさず入れた『おひさま』賞賛フォローも、おためごかしじゃない偽らざる本音だろうに、なにせ開口一番のインパクトがでかすぎて。困ったもんだ。

面白かったのがその後のトークで当の岡田自身の口から、最も影響を受けた作品と自認する山田太一脚本のTVドラマ『早春スケッチブック』での山崎努の台詞、「ありきたりなことを言うな!お前らは骨の髄までありきたりだ!」を例に、「毒を吐くってそんなに駄目なのかな、駄目な風潮ってあるんですか」と問題提起したこと。
この人がそれを言うのか、との意外性と驚き。一方で、独自スタイルを貫く点で共通する心情かもしれない、とも。

特撮ジャンルに振り替えてみるなら、中園の示した反応は井上敏樹脚本の特徴たる「造られた(嘘臭さ紛々たる)過剰さ」に個人的に感じる違和感と同質のものではないかと思う。男と女、あるいは善と悪の両極端ではあれ、それぞれに特化した過剰な「わざとらしさ」が、シリアスを際どくコメディすれすれに転化させる、背中がむずむずと痒くなる感覚を呼び覚ます、という点において。
岡田も井上も根底にあるのは「脳内でこしらえた妄想やファンタジー」を映像というカタチで既成事実化したい欲望ではなかろうか。
他者が吹き出してしまうとかむず痒く感じるのは、その欲望が女々しさを必然的に内包する切実なものである証拠かもしれない。
ここで誤解なきよう慌てて付け加えるなら、おのれの中の女々しさを断固認めない空威張りの勘違い幼稚脳では成人男子(20代以下は情状酌量すべきかも)的に魅力ゼロと断言できる。かといって女々しさの上にあぐらを掻き「等身大」などとうそぶいて開き直る、さもしき根性では論外だろうが。

脚本家は監督やプロデューサーとの共同作業、だから楽しいのだと中園と岡田に連携プレーできれいにまとめられては、それに異論ある尾崎は沈黙するしかないのであったが、しかしこれも唯一の正解などないわけで、現にしっかりとビジュアルイメージを主張する脚本家が、やがて監督を兼任するケースもある(BワイルダーやPハギスなど)。
こないだ知り得た小林靖子の同様の言(脚本家は共同作業云々)にしろ、むやみに絶対視しスゴイだのさすがだのと過度に持ち上げるのが「ファンの一途さが招く」幻想にすぎないことは、心の隅に留め置いても無駄にはなるまいと思う。