岡元イクサ/タイバニ寸評/twitterジレンマ/大藤リュウレン他







長のご無沙汰。

結局は「オーズ」終了時の感想も「140文字の断片をいくつか」だけで、前ブログのW(ダブル)記事との関連で語る目論見は実現ならず。多少なりとも記事整理したというのに報われないことだ。まあ過去に書いた自分の記事読む機会も早々なかろうし(だいたい書きっ放しで放置が常)無駄ではなかったと思うことにしよう。

気まぐれで雑文など書いてみて、迷ったが載せることにした。なにせ雑文の類ゆえ大したことはなく、また前後の話題もほぼ脈絡なしだ。縁あって見かけた方はそこんとこ宜しくです(と言葉を濁す)。



◆岡元イクサ(スーツアクトのさらなる可能性)

仮面ライダーキバ』では変身者は岡元次郎SA演じる「イクサになる」、今では主流となった感のある高岩成二SAに代表される「スーツアクターが変身者を模倣する」のではない、もう一つの可能性を「キバ」が提示していた事実を、実際に東映chでの放映を観ることで、遅ればせながら再確認することとなった。たとえ個人的に作品自体へのとっつきは非常に芳しくない「キバ」でも、SAによる演技の選択肢の幅を広げた点に関してはスバラシイの一言しかない。

「変身者になりきる」ではなく「変身後の固定キャラ」を一貫して演じるという方法、このアイディアは今以上に注目され、もっと応用活用されていい斬新なものだ。さらにこのような「目新しい発想」に対して、適当に流すことも無視することもなく、漏らさず拾って言及すること、の大事はあるのだ確実に。

確かにキバ以前にも、複数の変身者が同一の変身後(同SA演じる同ライダーの姿)になるパターンはあったが(『ファイズ』とか)、これほど明確に「岡元次郎という特定の個性を全面に出した変身後キャラ」になる、というほどには徹底して突き抜けてなかったと記憶する。なんだかイクサの登場がそのまんま、誰というフィルターをも通さない純粋なる岡元次郎劇場という感覚で(少なくとも私には)楽しめた。この不思議に無意識でいられるわけがない、SA贔屓として無反応ではいられない、今までになかったツボにくる感覚にして面白さなのだから。

いつの間にか「いかに変身前の役者になりきるか」が至上命題にして唯一のSAのとるべき正しい方向性であるかのような扱いになってしまっている、いや勝手に可能性の枠を皆で限定してしまっているのだが、の「唯一絶対」で凝り固まった窮屈さは常々感じていた。(もっと言えば、あらゆる場面で、対象で。)

何となくの流れで既成事実化した主流なあり方を、唯一の正解とか結論と思い込むのは早計だろう。スーツアクトの可能性はもっと広がるはず、いや広げなくてどうする、とTVの向こうでスーツアクター諸氏が高度な演技&アクションを披露するたび思う。「ここで終わるはずがないのに」と呟きたくなる。


◆タイバニ寸評

一話にしろ全体にしろ30分アニメというより1時間ドラマのペース配分を感じさせる脚本、作画の明らかな力不足(人材不足?)辺りが次回に改善を期待したい点だろうか個人的にも。「今どき珍しい」シンプル素朴な勧善懲悪に徹した内容については、アメコミ仕様がウリな手前、違和感というほどではないが、私刑を自己正当化するルナティックの今後の処遇は気になるところ。今のままではテロ容認とみなされ収まりが悪かろう。二期で決着つけるにしろ、すでにバーナビーで一回使った肉親の悲劇ネタ以外のもう一捻りで見てみたい願望がある。というのもどう巧くアレンジしようと「またこのパターンか」な失望は消せないと思うので。


twitterジレンマ

140文字には収まらないが短文である場合、twitterに分割して呟くのと、こちらで一括掲載するのと、どちらがいいだろうと度々考えていた最近。ただ前者はTLを共有する仕様上、いつまでも途切れ途切れでひとつことを呟くのに遠慮があるというか躊躇するというかブレーキが働く、というのが避けがたくあり、気にしないわけにはいかない(人にもよるだろうが)。
とりとめない思考に言葉を与えてカタチにする作業(この表現がしっくりくる)に毎回躓いている人間の駄文を、自らが望んでならまだしも「強制的に読まされる」のでは、申し訳ない気持ちになろうともいうものだ。興味の持てない話をだらだら長引かされても意に介さないのは、逆に考えれば「身を入れて読んでないから=どうでもいい発言扱い」の場合だってあるだろう。強制的に読まされるストレスは誰にとっても皆無でないことに思い至ると、偽善に立脚した胡散くさいシステムに思えてきて、微妙に嫌悪がちらつきもする。

それとブロックの問題。最初の”はじめまして”の段階から中傷まがいの言葉をふっかけてきたり、もうこれ以上対話しても埒があかないにも構わず相手側が好戦的なリプライをし続ける場合、ブロックは有効な方法だと最近実感した。ブロックはなにも「その人の人格を全否定するものではさらさらなく」、強制的に距離をおくことで無益な泥沼の争いを回避できる良さがあると思う。
その時点では頭に血が逆上ってリプライし続ける相手でも、強制的に離れてしまえば、いっとき沸騰した気分など忘れるかどうでもよくなる。それでも陰でぐちゃぐちゃごねる奴はごねるだろうが、いつまでも独り相撲はできないもので、いずれ飽きるし長くは続かない(相手をしなければ)。

※(こちらにも)追記:ブロックした相手の逆恨みで、さもブロック後も両者に会話が成立していたかのような体裁に改変したトンデモ捏造まとめ記事(当然自分に有利な展開に勝手に「つくって」ある)の存在を知った時は、人間どこまでも堕ちるときは堕ちるものだと、あまりの幼稚かつ卑小な手口に、呆れた。あんなつまらぬ真似をして一体なにが楽しいんだろうなあ。

◆人と作品

異論と批判と中傷と罵倒の違いに頓着せず、すべて一緒くたに自分という人格への攻撃と見なす短絡さにたまに出会うが、未だに慣れない、ただ唖然とするばかりだ。誤解なきよう「人」に興味なし、興味があるのは「作品」である旨を述べても、言葉の表層だけかすめて誤解し「人を人とも思わぬ欠陥人間」みたく判断されるのがオチだったり。なぜ表現物と表現者を同じ括りで考えられるのか、理解に苦しむ。何故そんな器用な(苦笑)真似ができるんだろう。


◆声のチカラ

「声が楽曲を導きだすだけの振り幅をもっているかどうかってのは、やっぱり。その声と出会えたら!っていうのは、ありますよね」(小林武史ディープピープル出演時の発言より)


◆大藤リュウレンの後ろ姿

再びSA話。過日観たダイレンジャーの、ダイレンメンバーが師と仰ぐ道士カク本人の口から、本当はゴーマ側の人間であると告げられ、絶句しその場に立ちすくむ変身後の(つまりSA演じる)5人の後ろ姿を捉えたショットで気づいたのが、大藤リュウレンの脚全体、とくに膝下が見るからに脱力してゆるく曲がっていたこと。いつもは極限まで神経の行き届いたフィギュアみたいにまっすぐに伸びている脚から(つい描写に熱がこもる)、ピリピリ張り詰めたような緊張感が何割方か抜けて、いかにも茫然自失の体に見えたことに心動かされてしまった。ちなみに大藤SAの後ろ姿に最も感情の乱れを感じたのは、いつもとの様子の違いが鮮明だったせいもあると思う。信じられない告白を聞いたショックに打ちのめされた後ろ姿に気づけて良かった、再見した甲斐があった。大藤SAは派手な動きだけじゃない、繊細な表現者であると知りさらに嬉しいのである(欲目全開)。