異形ヒーロー考(ベム&ライダー)







現在放映中の『妖怪人間ベム』は、人間社会に「いてはならない存在」と見做されてきた異形の悲哀と苦悩にとことん付き合い、負の感情から完全には解き放たれない人間の厄介な性まで、漏れなく炙り出そうとする所存らしく、今後どう展開するのか興味を引かれる番組の一つだ。

異形ヒーローの括りで必然的に想起される『仮面ライダー』と比較しても、
予告なく突如として目前に現れれば、大抵の人なら驚きに言葉を失い、恐怖に震えるであろう異様な外見(自然に誕生したわけでなく、あくまで人工的クリーチャーたる妖怪人間/改造人間)だからこそ、
一般人以上に倫理を重んじ、我が身を律し、正しいことを為さんと努め、『ベム』であれば、失敗作の自覚からいつか完全なる「人間になりたい」と願い、『ライダー』であれば、以前と変わらぬ「人間でありたい(人の心だけは失いたくない)」と切実に願うのだ。

彼らが異形の外見をそれほど意識するのは、異形を悪のイメージに結びつけたくないから、に他ならない。
外見に基づく偏見や差別が、如何に人の心に巣食いやすいかは、洋の東西を問わず歴史が証明してきた。
外見だけで即座に悪と決めつけられたくない彼らは、他者を救い助ける無私のヒーロー行為に身を投じることで、社会にパーソナリティを承認され、居場所を得たい願望を、気持ちのどこかに持っているんだろうと思う。
「人」のように見えない異形ゆえ、余計に「人(それも理想的な)」として振舞おうとする心理が働く、というのは異形を負い目と見做すからだが、そのように感じさせる偏見の色眼鏡を押しつけるのは社会であり、むやみに肩身の狭い理不尽な窮屈を強いられた結果の、健気といいたくなる彼らなりの身の証し方なのだろう。

また彼らの異形が「人為的に被った悲劇」であることも忘れてはならない。
(悪の秘密結社を率いる首領だの謎の生体科学研究者だのの)見知らぬ他者のエゴにより、強制的に異形としての運命を背負わされた。
にも関わらず、異形を怖がり憎む人々にほとほと愛想が尽きて、無差別に殺人テロを仕掛けるでもなく、
自暴自棄となり、社会にかたくなに無関心な態度を貫くでもない。
逆に自らを盾にして、遥かにもろく壊れやすい人間の身体を守ろうとする。

想像を絶する孤独と悲しみを知るがゆえに、これ以上誰にも不幸になってほしくない気持ちに傾く、というのは人情としても理解できる。
人為的な不幸に見舞われた時、それをどう捉え次に繋げるかは、異形ヒーローでなくとも、奇跡の確率で(とも聞く東洋思想では)人として授かった命を、どう生きるかに関わる重要な選択だと思うが、
その悲劇を「生かして」他者のために動く、直接的には生命の危機を救ったり、また『ベム』なら抱えた孤独に共感したり和らげたり励ましたりする、という精神のダイナミックな反転作用が、もしかすると悲劇を背負った異形ヒーローの特徴なのかもしれない(オーズのアンク然り ←詳細は過去のtweet参照になってしまうが)。




次回に続く、予定。