異形ヒーロー考2(クウガ)






東映チャンネルでのクウガ放映が終了した。
一応録画した分は出来るだけ後からチェックするようにしていて(時々ミスって途中の話数が抜けたりしながらも)、終盤の数話をまとめ視聴したら、案の定、観ていて辛い描写の多さに、最後はへとへとに消耗してしまった精神面で。

ブログやらtwitterやらで幾度か言及してきたことだが、『クウガ』では、悪の役割をグロンギという異形の集団に一点集約し、彼らを壊滅させた段階で平和が戻って良かったねで終わるという、昭和の特撮ヒーローのスタイルを継承しながら、一方で、正式な事件扱いで警察が積極介入する、マスコミが随時報道する、暴力を口当たりよく誤魔化さず凄惨なシーンをあえて挿入する、等々の一般ドラマ並みにリアリティを重視したドラマ作りとなっていて、
この設定と描写の「著しい落差」こそが、物理的暴力の否定を謳っていると同時に、異物を認めない徹底した排他主義に基づく精神的暴力をも背後に感じさせてしまうダブスタ的弊害(と言うべきかと思う)をもたらしていると、以前から思っていたことを、今回の視聴で再確認したようなものだったから。

つまり『クウガ』は、昭和期に顕著な勧善懲悪(人を善と悪に二分化して捉える)の単純な発想ベースに、社会&人間ドラマ的なストーリーが乗っかってる作品なのであって、だからそのベースとなる勧善懲悪の論理では、本ドラマが必要とするリアリティを支え切れず、結果、倫理面での齟齬や矛盾のほころびが露出してしまうのだろうと思う。

一条刑事が薔薇のタトゥーの女に「我々(人間)とお前たち(グロンギ)は違う!」と叫んで、無視して立ち去ろうとする彼女を背後から撃った時も、
その後の電話連絡にて「B1号を倒しました」と報告を入れ(ちなみに一条刑事だけでなく「人間側の」登場人物は、五代も含め誰もがグロンギを番号で呼ぶ。ナチによるユダヤ人の扱いを彷彿とさせるが、グロンギは「絶対悪」なのだから個別の名前は不要との人間側の理屈なのだろう)、電話を受けた上司が「そうか!」とたちまち快心の笑顔となり、その死を露骨に喜んだ時も、
ああ、暴力はまぎれもなくここにある、と寒々しい感慨を抱き、気持ちが暗く落ち込んだ。

人の死(※劇中でグロンギは人と同じ種であるとの言及がある)を厳粛に受け止められない酷薄さにまるで気づけない「善人」たちの容赦なき残酷は、この調子で最終話までノンストップで続く。
なかでも五代妹が平然と言い放った「本当は(クウガはこの世界に)いてはいけなかった」との、行為の善悪を飛び越えて存在自体を全否定してしまう、まるで最後の止めを刺すかのような容赦ない言い様を聴くたびに無性に悲しく、用が済めばとたんにお役目ご苦労と(最終話丸々費やして賛美される五代とは真逆に)体よく厄介払いされるクウガも、個性を剥奪されて深みの欠片もない、下手な書き割り同然のキャラにされたグロンギも、異形を平然と悪に見立てる論理の飛躍には、胸が痛んで仕方がない。

悪い行為はもちろんある、だが悪い人間だと簡単に他者を決めつけていいわけがない、死んで当然と人格否定していいわけがない。そんな権利など誰にもないのだから。
「悪」は「ヒト」でなく「コト」を指すのだと思っている。生命あるものはみな平等に尊いのだと子供の頃に教えられ、当時はピンとこなくとも今ではその意味するところが分かる気がする。
どんな極悪を重ねた者も聖者もヒーローも市井の庶民も、理不尽なまでに生命は平等に出来ている。それが証拠にどんな生き物も生き物であるかぎり、死は確実に訪れる、逃れるすべはない、生命自体には貴賎も優劣もない、一つの身体に一つの生命が宿る原則は変わらない。

五代が変身したクウガは最後まで黒化して(自分を見失って)暴走することはなかった。
その理由が、単なる肉体能力的な強さのパワーに呑み込まれないだけの、倫理の歯止めが有効だったから、であるなら、クウガという存在を否定するのでなく、暴力という行為のみを一貫して否定すべきだったと思う。存在してはいけないなんて、たとえ架空のキャラクターであっても言って欲しくなかった。
(人情的にも回を重ねるごとに愛着を深めたキャラクターを、一言のもとに全否定されるのは辛い。願わくば想像力を駆使して考えてみて欲しい。もしオダギリ五代をそんな風に否定されたら、ファンは劇中のこととはいえ、辛くないといったら嘘になるのではないか)

行いに善悪はあっても、存在に善悪はないはずだ。
たかが不完全な人でしかない我々が、神になり変わったつもりか、ちっぽけな好き嫌いのレベルでしかない私情を正当化したいがために、他者の存在に善悪のレッテルを厚かましく貼るのは、哀れなまでに滑稽なだけだ。

それにグロンギを倒したから世の中が平和になった、悪が滅んだ、と安堵するのも、著しくリアリティを欠く道理で、ここにも悪という形なき概念を特定のキャラ(=グロンギ)に擬人化し、それを排除さえすればいいと考える短絡的、ゆえに危険な論理が働いているように思う。

異形にだって生命がある、生きている(架空の作品の中であっても)。
存在までを否定してしまうのは、あまりに悲しすぎる、辛すぎる。