追記:過去を客観的視点で検証し直す必要性を考えてみた






>愚かしさも人間のうち、などとしたり顔で開き直るような、厚かましい根性にだけは成り下がりたくない

先日のカーネーションの感想記事で、男の浮気の一つや2つ、を当の男が主張すると、開き直りに聞こえてしまうから、女である糸子に対しまるで説得力がなかった(ばかりか反感を買った)のだと思う、との見解を書いた。
だが浮気云々以外でも、当事者(あるいは当事者の立場に無意識に自分を重ねる者)が自らを擁護すればするほど、他者(あるいは当事者の立場からある程度の距離を置こうとする者)の反感を買ってしまう図式は成立する。

戦争賛美は時代や事局の要請に従って渋々に、というより、軍の戦争遂行に積極的に加担し、有無を言わさぬ強大な権力という名の暴力で、同じく身を守る術なき弱き立場の庶民という同胞へ、権力側から思想的圧力をかけ続けたケースに於いて、
後年それを良くなかった、間違いだった、と認めるより先に、仕方がなかった、と不可抗力を強調するにとどまり、過去の間違いを検証し、よりよい未来のために反省する機会を放棄するのは、臭いものには蓋、の逃げでしかない。

少なくとも戦争賛美までは個人の自由の領域、だがそれを他者にも、権力の力を借りて脅かし、頭ごなしに強制する醜さを、糸子ほどストレートに拒絶反応を示せないにしても、内心ではひどく嫌がっていた、または心から恐れていた者も少なくなかったのが、当時を生きた方々の証言等から窺える。

あのような行為に仕方がなかったとの弁護が許されるのなら、共産圏で頻発した密告や監視、また民族浄化を旗印に掲げての人種差別なども、仕方がなかった、の一言で済むことになる、悪いことも「情」で片付けられてしまう、その日本人特有の、ものごとの是非を曖昧にし、責任回避をしたがる傾向が、いかに危険か、その弊害がどれほどか、もっと重く受け止める必要はあるように思う。

原発問題も然り、思考放棄して政府や企業などの権力に丸投げした我々の、無責任かつ無関心を決め込んできたお気楽体質に、全くの非がなかった、とまではさすがに言えないだろう。
当時ナチを擁したドイツは戦後に過去の罪を検証した。日本はまだまだこれからだ。

見たくないと目を逸らして無駄に時間稼ぎして、何になるだろう。
気まずい過去から逃げてばかりで、これからの未来をどう盤石に築けるだろう。

仕方がなかった、は当事者たる我々の(そう日本人の誰も過去から無関係ではいられない)、みにくい傷の舐め合い、というのが本当のところではなかろうか。
情緒に逃げても、なんら解決の糸口にはならない。
愚かしい間違いには、愚かしい間違いだった、と痛みをおそれず認めることから始めなければ、真の意味で先へ進めない、そう思う。