言葉が100パーセントになっていく


田原総一朗の遺言2012

録画消化の日々は続く。

朝生司会者なる肩書きが、最も一般には広く認識されるのだろう田原総一朗は、かつてテレ東のきわどく対象に斬り込む数々のドキュメンタリーを手がけた「名物」ディレクターであり、番組ではそれら映像作品群の概要を紹介する中で差し挟まれる、関連ゲストを招いての忌憚なきトークが大きな見どころとなっている。

紹介された作品中で最も感銘を受けたのが、連合赤軍あさま山荘事件をテーマに、そのリーダーの一人たる永田洋子をピックアップし、彼女を自分と重ねることで擁護した、当時のウーマンリブの騎手、田中美津とのやり取りの一幕。

そこで田原が投げかけたのは「(連合赤軍を擁護する際につきものの)真面目だった、誠実だった、一生懸命やった、等々が、果たして彼らのしでかした罪の完全なる免罪符になり得るのか」という、問題の根本を的確に突く疑問だったのが感慨深い。

また連合赤軍を題材にした漫画「レッド」の作者、山本直樹による「言葉が100パーセントになっていく(肉体を軽視した結果の暴力が、精神論のお墨付きを与えられて正当化される)」ことの恐怖には、一も二もなく同意する。

山本は朴訥とした語り口で、大戦末期の日本でも、たとえばポル・ポト政権下でも、卑近な例では学校や職場においても、強制的に働く同調圧力は「繰り返し」起こっている、それは(過去を貴重な教訓として学ばず)「繰り返し」忘れているからだ、という。

これら田原や山本の主張は、先日来の個人的に引っかかりを覚えてこだわりを貫いた要因と、根本部分では何も変わらない。要するに、同じ問題意識を共有している、といえるのだが、ただ私の場合の例が、俗っぽいフィクション(人によっては朝ドラ「ごとき」と見下す対象でもあろう)に類する分、表面的に読み流される(真意が理解され難い)確率は相対的に高いのかもしれない。

如何に「異物排除」に向かいたがる欲求が、ただ動物的本能に従っているだけの、人としての矜持も誇りも捨てた、みすぼらしく醜い恥ずべき行動か。それに対する自覚の薄さ、呆れるまでの当事者意識のなさが、過去の過ちにいつまで経っても真摯に学ぼうとしない、馬鹿の一つ覚え的な「繰り返し」を生じさせる、ということを、一人一人が強く心に留めておこうとする地道な努力からしか、何も希望につながることは始まらないんじゃないかと、以前からずっと思ってきたことを書いてみる。ただ、伝わる可能性はほとんどゼロに近いだろうというのが、偽らざる厳しい現実なのかもしれないが。